「詩は歴史性に対して垂直に立つ」とは、小説家・稲垣足穂の言葉だが、いま、この時代の波のなかに垂直に突き刺さるようにして立っているKing Gnuというバンドは、その存在自体がまるで一篇の詩のようである。実際、いまの彼らは他のどんなバンドとも違う独特の「詩性」のようなものを纏っているように思える。その詩性は熱狂となって、いまを生きる他の誰かへ、詩から詩へと伝播していく。
バンドの首謀者・常田大希が「Srv.Vinci」を結成、メンバーチェンジを経て、去年4月に「King Gnu」へと改名し本格的なスタートを切ってからというもの、彼らは破竹の勢いで活動規模を広げている。King Gnuは、いままさに熱狂の渦の中心にいるバンドだ。そして、そこにいることは、彼ら自身が望んだことでもある。この先に待ち受けているのは天国か? 地獄か?――「そんなことは、どうでもいい」と言わんばかりに、King Gnuは、いまこの瞬間を疾走する。
今回、CINRA.NETは常田大希への単独インタビューを行った。常田は、かつては東京藝術大学在学中に小澤征爾の楽団に在籍していた過去を持ち、現在、個人名義ではDaiki Tsuneta Millennium Parade(DTMP)などのカッティングエッジな音楽プロジェクトから、ファッションフィルム、映画、ドラマの劇伴などにも音楽監督で携わる才人。米津玄師のアルバム『BOOTLEG』への参加を通して、その名を耳にした人も多いだろう。King Gnuの根源にあるのは、間違いなく、この男の「詩性」である。私たちの質問に対し、彼はゆっくりと、一つひとつの言葉を確かめるように語ってくれた。
King Gnuのメンバーも、みんなクソみたいな生活を送ってきた。
—King Gnuのライブを観るたびに思うのですが、ステージ上の常田さんは、どこか孤独に見えます。どれだけ周りに人がいても、1人でそこに立っている……そんな印象を受けるというか。
常田:……友達はいますけどね(笑)。
—はい(笑)。
常田:そういうふうに見えるのは、俺がこれまで、集団的な生き方をしてこなかったからかもしれない。根本的な資質だと思うんですけど、昔から、割と自然と孤立できるんですよ。別に、それが悲しいわけでもなく、自然とそういう感じだった、というだけなんですけど。周りもそういう連中が多いんです。あくまでも個々の集まり、みたいな感じというか。
—周りも常田さんのような人が多い?
常田:「俺みたいなヤツ」って言うと、語弊があるかもしれない。周りにはいろんなヤツがいて、俺みたいなヤツはあんまりいないかもしれないです。だから上手くいくんだろうけど。でも基本的に俺も、俺の周りもフリーランスで活動してきたヤツばかりなんですよね。どこにも所属せずに生き抜いてきたヤツって、強いじゃないですか?
PERIMETRON(常田が立ち上げた、King Gnuのデザイン面なども担当するクリエイティブチーム)も、フリーの集合体っていう感じだし、King Gnu のメンバーも、みんなクソみたいなフリーの生活を送ってきたので。そういうところでの絆はあるかなと思います。
King Gnu(左から:井口理、新井和輝、常田大希、勢喜遊)
—その感覚は、歌詞にも表れているのかなと思います。常田さんは基本的に、「僕たち」や「あなたたち」という視点の表現の仕方はしないですよね。もっと「1対1」の関係を描写する歌詞が多いように思います。
常田:それはあるかもしれない。集団に問いかける、というやり方が苦手で。だから俺は、MCでもなにを喋ったらいいのかわからなくなるんです。一人ひとりに対して喋ることはできるんですけど、まとめて喋るっていうことが苦手。だから、1対1の関係の歌詞になるんだと思います。
—常田さんのなかには、集団に対する違和感があるのでしょうか?
常田:う~ん……特にそういう訳ではないですが……集団には作った人の哲学があるじゃないですか? 俺は誰かの哲学に共感して一緒に頑張りたいと思うよりも、自分の哲学に沿って何かを作り出していきたいタイプというか。
—「合わせる」という発想があまりないわけですよね。
常田:そうですね。俺にとってはなによりも、自分のなかで腑に落ちているか? ということが重要で。それが、物事の判断基準になるんです。だから必然的に、自分の周りの仲間たちと育ってきたし、クリエイティブも基本的には、ジャケットも映像も含め、自分たちの周りで完結させている。でも、このやり方ってすごく責任を伴うんですよ。もし、かっこ悪いものになってしまったとしても、それは自分の責任ということになるから。
こういう映像を同世代のクルーで作れたというのは、これから5年先、10年先を見たときに、夢があること。
—その責任から逃れたがる人もいると思うんですよ。でも、常田さんにとって、責任を負うということは、心地のいいことでもある?
常田:そうですね。責任を負うことは自然なことだし、責任を負っていないと逆に不安になります。たぶん、人に依存できない体質なんです。もちろん、人に身を預けるような生き方もひとつの生き方だし、たとえばKing Gnuの理(井口理)はそういうタイプの人間なんですよね。よく言えばあいつは心から人に身を預けることができる。悪く言えば無責任。そういうタイプの人間も絶対に必要だと思います。
ただ、俺個人としては、責任を負うことが好きなんです。最近、会社を辞めてでも俺たちと一緒に働きたいと言ってくれる人がいたりするんですけど、そういう求心力のあるチームになってきたのも、自分で責任を負ってものを作ってきたからなのかなって思います。
常田:“Flash!!!”のビデオ、見ましたか?
—見ました。演奏シーンとCGっぽい部分のコントラストとか、映像全体が纏っている狂気的な質感とか、すごく刺激的でした。
常田:あれは、余計なストーリーはなくして、演奏シーンと言葉を強く出そうと思っていて。あのビデオ、「CINEMA 4D」というソフトを動かすためにPERIMETRONで150万円くらいするパソコンを買って作ったんですよ。他にもアニメーションのMADなんかを、ちょっと洗脳的に差し込んでみたりして。こういう映像を同世代のクルーで作れたというのは、これから5年先、10年先を見たときに、夢があることだなって思うんですよね。
俺は昭和の歌謡曲……たとえば、井上陽水さんの歌詞とかがかっこいいなと思うし、憧れる。
—この夏、2曲の新曲が配信リリースされますが、まず“Flash!!!”は、最近のライブでは1曲目として演奏されることが多い楽曲ですよね。そして“Prayer X”は、アニメ『BANANA FISH』のエンディングテーマに決まっている。どちらも、この先、より広くKing Gnuが認知されていくにあたっての扉の役目を果たすような曲だと思いました。
常田:そうですね……特に“Flash!!!”は、俺にとってはKing Gnuを象徴する曲っていう感じなんですよね。なので、去年の『Tokyo Rendez-Vous』のリリースがあって、レコ発も終わったこのタイミング、次の段階に進む一発目にふさわしい曲だと思いますね。
—“Flash!!!”がKing Gnuの象徴たりえるのは、どういった理由によるのでしょうか?
常田:「この先、俺たちがどうなっていきたいのか?」っていうことが詰め込まれている曲だと思うんです。曲自体の勢いも、ちょっと頭が悪そうなシンセが入っているのもそうだし、あと、歌詞も俺はすごく気に入っているんですよ。歌っていてしっくりくる、というか。
—<それでも主役は誰だ? お前だろ>というラインが象徴的ですけど、聴き手に対して強く言葉を発していますよね。
常田:そもそもは、仲間内のことを歌った曲だったんです。仲間にヤバいことがいろいろあったんですけど、「それでも突っ走っていこうぜ」ということを言おうとした曲で。でも、そのエネルギーは誰しもが欲している普遍的なものだと思うので、聴き手にとってもパワーワードとなるように意識して書きましたね。
—根幹にあるのはパーソナルなものだけど、受け手が限定されるような形にはしていないと。
常田:想像の余地が残るように、というか。King Gnuの歌詞は基本的にそうやって、あまり具体的になりすぎないように、誰しもに共感し得るような広がりを持つ言葉のチョイスしているんです。全体としての文章は抽象的でも、一つひとつの単語は強いというか。俺は昭和の歌謡曲……たとえば、井上陽水さんの歌詞とかがかっこいいなと思うし、憧れるんです。ああいうパンチの出し方ができればいいなって思ってます。
「人」そのものに感動するのが大衆なんじゃないかって、俺は勝手に思っていて。
—先ほど“Flash!!!”のシンセを「頭が悪そう」と表現されましたけど、「軽薄さ」のようなものは、King Gnuにとって重要なポイントですか?
常田:うん、すごく重要ですね。多くの人は音楽を聴いて、「このブレイクがかっこいいよね」とか、「このコード進行がかっこいいよね」っていうことで感動しているわけではないと思うんですよ。「大衆を動かす力」って、そういうことではないと、いまは思ってるんです。
King Gnuにおいて言うと、たとえば理よりもっと個性の強い声質だったりスキルのあるシンガーは他にもいるんですよね。まぁ、最近はあいつも「歌が上手い」とか言われていますけど。
—いや、めちゃくちゃ上手いと思いますけど……。
常田:上手いとは思いますよ、最低限は。
—厳しい(笑)。
常田:でも、ポイントはそこじゃないんですよ。理は、歌の上手さや声のよさよりも、なにより人間としてのパワーがめちゃくちゃあるヤツなんです。人って、そのエネルギーに惹きつけられるものなんじゃないのかなって思うんですよね。「人」そのものに感動するのが大衆なんじゃないかって、俺は勝手に思っていて。
だから、もし理より歌が上手いヤツがいても、上手いだけではKing Gnuにとってまったくよくない。他のメンバーで言うと、ドラムの遊(勢喜遊)は、叩き姿から生まれるグルーヴの魅力が素晴らしい。それは音楽におけるフレーズのチョイスと同じくらい重要なことだし、人を高揚させるものだと思うんです。ベースの和輝(新井和輝)は音楽家として、とても真摯に音楽と向き合ってますし、King Gnuの音楽のアレンジにおいて一番の相談相手です。そういう意味でも、King Gnuにはいろんなタレント性を持ったヤツらが揃っているんじゃないかと思いますね。
社会との結びつき、時代とのリンク……そういうものがないと、ポップミュージックは意味をなさないし、面白くない。
—いま「大衆」という言葉が出てきましたけど、King Gnuは、大衆を巻き込むポップアクトとして存在を担おうとする野心が強くありますよね。
常田:そうですね。King Gnuに関しては、「ポップスを作る」ということに特化していると思います。社会との結びつき、時代とのリンク……そういうものがないと、ポップミュージックは意味をなさないし、面白くないと思うので。
—その考えに至ったのは、なぜだったのでしょうか?
常田:10代の頃は、もっと崇高なものを目指していたんです。時代とは関係のない、普遍的な美しさやかっこよさを目指すタイプの人間だった。でも、考えを突き詰めていって思ったのは、結局、時代性を纏ってない音楽が大衆的な熱狂を生むのは不可能なんだ、ということだったんですよね。
たとえば、Led Zeppelinがいまの時代に、1970年代の、全盛期だった頃の彼らと同じことをやっても、当時ほどの熱狂はおそらく生まれないですよね。時代の流れや熱に乗ったからこそ、Led Zeppelinはあの域に到達したんだから。いまの俺の考えは、そういうところにあるんです。
—常田さんが求める音楽の輝きは、博物館に飾られる類のものではなく、あくまでも時代性と密接に繋がるもの……同時代を生きる人々の人生のなかに着地することによって生まれるものだった、ということですよね。
常田:もちろん、それが音楽のすべてだとも思っていないですけどね。ただ、ポップスとはそういうものだし、King Gnuではそれをやろうとしている、ということですね。
—常田さんは、ご両親が音楽をやられていて、幼い頃から音楽に囲まれた環境で育ったんですよね?
常田:はい、音楽一家でした。
—大学在籍中は小澤征爾さんの楽団に在籍されていた経歴もある。常田さんがいまポップスを目指すのは、ご自身を育てたアカデミックな音楽の磁場に対する自己否定、という側面もあるのかもしれないと思ったのですが、どうでしょう?
常田:いや、中学生の頃からMTRで自分の曲を作っていましたし、もっと客観的にアカデミックというか西洋音楽を捉えていたと思います。「このストラヴィンスキーのオケのドープさと、ジミ・ヘンドリックスの“Machine Gun”のフィードバックのスピリチュアル感をぶつけてみれば、すげぇ合うんじゃねぇ?」みたいな(笑)。
—いまの話は、常田さんの音楽観を表していますよね。ストラヴィンスキーやジミヘンを過去の遺産として額縁に入れて愛でるのではなく、両者の音楽を聴いた、いまを生きる自分がなにを感じ、なにを生み出すのか? ということが重要というか。
常田:この時代の、この流れのなかで、俺はこの音楽を作った……そういう、自分の文脈を持って、そのなかで自分に腑に落ちるものを作ることが、俺にとってはなにより重要なんです。
「バランス」は、すごく重要だと思う。それがないものには面白さを見いだせない。
—「時代を意識する」ということは、流行に乗ることではなく、「いま、自分はどう在るのか?」ということを明確にするため、ということですよね。
常田:そう。だから、このタイミングでKing Gnuとして“Flash!!!”をリリースできるのは、「売れるか / 売れないか」とか、周りからどう思われるか、ということは二の次で、「俺の精神衛生上、必要なこと」という感じもするんです。
最近、俺らの周りでは特に、チルな感じのアーティストが多い気がするんですよね。音楽が細分化してしまって、もはや個人的な楽しみになってしまっているような気もするし、昔は音楽が大きく担っていた熱狂が、いろんなカルチャーに散ってしまっている感じもする。
—たしかに、そういう状況はありますよね。
常田:でも“Flash!!!”は、俺が子どもの頃に憧れたロックバンドのかっこよさや熱狂を自分という現代のフィルターに通している曲なんです。そういう曲を世に出すことは、自分にとってすごく重要なことだし、King Gnuが今後どういう曲を作っても、「King Gnuっていうのはこういうバンドだぞ」って帰ってくることができる曲だなって思う。
—うん……すごく納得できました。
常田:ただ、もし周りが暑苦しいヤツばっかりだったら、俺はチルな音楽を作りはじめるかもしれない(笑)。
—ははは(笑)。でもそれが、その時代に立っている常田大希という人間なんだ、ということですよね。
常田:最初にも言ったように、俺は根本的に周りに馴染めない人間だし、本能的に「人と違う」ということを求めてしまう人間だから。どこにも馴染めない人間だからこそ作れるものがあると思うので。
—その常田さんの感覚って、本能的なものであれ、すごく優れた「バランス感覚」と捉えることもできるのかな、と思いました。
常田:あぁ、そうかもしれないですね。「バランス」っていうのは、すごく重要だと思います。それがないものには面白さを見いだせないし、聴いたことがないバランス感覚のものを作りたいです。
常田:King Gnuで言うと、理のきれいなボーカルがあって、それを汚す俺っていう対比も1つのバランスだし。単純に、綺麗な音と汚い音をぶつけるっていう話ではなくても、俺らみたいなコアな音楽家畑にいたミュージシャンがポップスをやろうとするのもバランスだし、黙ってかっこつけてりゃいいのに、理がふざけた動画をTwitterで上げ続けるのも、バランスだし(笑)。バランス感覚っていうのは、音楽だけじゃなく、生き方にも求めるものですね。
俺、Oasisの“Live Forever”が超好きなんですけど。
—King Gnuのバンドロゴには、「JAPAN MADE」という言葉が刻まれていますよね。それに『Tokyo Rendez-Vous』も、タイトルが示すように、「東京」を連想させるモチーフが散りばめられたアルバムだった。「日本」や「東京」というモチーフがKing Gnuにとって重要となっているのは、なぜなのでしょうか?
常田:まず、俺らはインターネット世代なので、いくらでも海外のものに触れられるじゃないですか。俺たちにとっては、海外の文化の影響は自然と受けるし、それを自分たちの音楽に還元していくのは、あまりに自然なことで。音楽的な国境がなくなっているって、すごく感じるんですよね。J-POPシーンは少し特殊ですが。
だから、たまに「日本にも洋楽っぽいバンドが増えている」とか、「最近の日本の音楽シーンは世界基準に近づいている」みたいな話を聞いたりするんですけど、それも別に大した話ではないな、と思う。それが、いいことなのかどうなのかも疑問だし。
King Gnu『Tokyo Rendez-Vous』を聴く(Apple Musicはこちら)
常田:そういう感覚をベースに持った世代として、なにをすべきか? っていうことをすごく考えるんですよね。……俺、Oasisの“Live Forever”(1994年)が超好きなんですけど。
—1992年生まれの常田さんにとって、Oasisは生まれた頃に出てきたバンドですよね。
常田:Oasisがイギリスであの曲を演奏しているときのお客さんの感じって、すごいんですよね。イギリスという国のなかから生まれたOasisというバンドが、彼らの言葉で、彼らの生い立ちを背負って演奏するからこそ、同じイギリスで暮らす若者たちが熱狂して、涙するっていう……あれを、俺らは俺らのコミュニティーで目指さなきゃいけないと思っています。King Gnuという日本で活動するポップスのグループをやっている上で目指す先は、そこだと思っていますね。
俺らの歌詞は、すごくポジティブだと思いますよ。ポジティブじゃないことは、別に歌おうとは思わない。
—音楽に国境がなくなっているいまだからこそ、土地や出自というものがリンクすることで生まれるエネルギーを求めている。では、たとえばOasisの場合、イギリスのなかでも「労働者階級」というバックグラウンドが、同じ立場にいる聴き手との精神的な繋がりを強めた、という見方もありますよね。そういう意味で、いまの日本の若者たちとKing Gnuの間には、具体的にどういった繋がりが生まれ得ると思いますか?
常田:う~ん……デモのように盛り上げるメッセージ性はKing Gnuに皆無ですけど、普通に東京で暮らしている若者が思っていることを歌ったら、共感も生めるんじゃないかと思っていますね。
たとえば「人を殺したい」なんて普通に思っているヤツは変わりものだし、そいつは共感を生めないと思うけど、相当な狂人ではない限り、自分が思っていることって、全員とは言いませんが、他の人も思っていることだったりすると思うんですよ。それにOasisだって「俺らは労働者階級だ」みたいなことをあからさまに歌うのではなく、もっと自然に自分たちが思ったことを歌っていたんだと思うんです。俺らの歌詞もそういう感じだったらいいなと。
—なるほど。たしかに『Tokyo Rendez-Vous』に収録された“McDonald Romance”などは顕著ですけど、描かれているのは、すごく等身大の心象風景ですよね。<もう財布の底は見えてしまったけど/それさえも笑い合った それさえも恋だった。>っていう……前提となっている景色や状況は決して満たされているわけではないんだけど、でも、そこには間違いなく2人だけの幸福があるっていう。
常田:まぁ……満たされてはいないですからね。金もないし、車も持っていないし。でも、それらがあれば満たされるような話ではないし。それに、満たされていなくても、不幸ではないので。その点は、いま東京で暮らす自分の、自然でリアルな言葉を歌いたいなって思います。ただ、俺らの歌詞は、すごくポジティブだと思いますよ。ポジティブじゃないことは、別に歌おうとは思わないです。
<ただ下り坂を猛スピードで駆け抜ける>だけですね。その先どうなるかは、いまの俺にはわからない。
—改めてなんですけど、いまKing Gnuはどんどんと活動の規模を大きくしているし、King Gnuのライブを観ると、ポップミュージックとしての「いま、この瞬間の熱狂」というものが間違いなく存在していることを感じるんです。渦のなかにいる現在の心境を、最後に聞かせていただければ。
常田:……怖いことだな、とも思いますけどね。いまはまだ、アンチとかはそんなに多くはないでしょうけど、これから先、褒めるヤツも貶すヤツもいっぱい出てくるでしょうし。そういうところで生まれるエネルギーって、想像以上なんだろうなと思うんです。
大勢の人が喜んでいる姿に、俺の想像以上にクリエーションは引っ張られると思うんですよ。そういう未知の力は感じはじめていますね。規模が上がっていって、人が求めているものと自分がかっこいいと思うものが食い違ってる事を感じてしまったとき、それに対して自分はどうするんだろう? っていう怖さ……いま、それはすごくあります。
—こういう取材の場で、「どれだけ売れても周りには流されないですよ」なんてリップサービス的に言い切ってしまうこともできると思うんです。でも、そう言い切らないところを見ても、やっぱり常田さんは自分自身に対して、すごくリアルな方だなと思います。
常田:そうっすね……まぁでも、波を楽しみたいなと思います。“Flash!!!”の歌詞にもありますけど、<ただ下り坂を猛スピードで駆け抜ける>だけですね。その先どうなるかは、いまの俺にはわからないです。
- リリース情報
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- King Gnu
『Flash!!!』 -
2018年7月13日(金)配信リリース
- King Gnu
- プロフィール
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- King Gnu (きんぐ ぬー)
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東京藝術大学出身で独自の活動を展開するクリエイター・常田大希が2015年にSrv.Vinciという名前で活動を開始。その後、メンバーチェンジを経て、常田大希(Gt.Vo.)、勢喜遊(Dr,Sampler)、新井和輝(Ba)、井口理(Vo,Key)の4名体制へ。『SXSW2017』、『Japan Nite US Tour 2017』出演。2017年4月26日、バンド名をKing Gnuに改名し新たなスタートをきった。
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