Chim↑Pom卯城竜太×中島晴矢 日本郊外でいかにサバイブするか

多摩ニュータウンの旧小学校で行われるCINRA.NET主催の文化祭『NEWTOWN』。音楽ライブやカフェ、フリーマーケットなど、バラエティーに富んだ演し物の一つに、アートの展覧会もある。

アーティストの中島晴矢がキュレーションする『SURVIBIA!!(サバイビア)』は、舞台となるニュータウンを含んだ日本の「郊外」について考察すべく、アーティストだけでなく、映画制作集団の空族や、音楽ライターで神奈川県川崎市のラップシーンについての著作を上梓した磯部涼など、異色の顔ぶれを参加作家として呼んでいる。そこには、郊外だけでなく、日本における「個」や「公共」に対する批評的な視点が込められているという。

展覧会に先駆けて、都市に対するさまざまなアプローチを試みているアーティスト集団Chim↑Pomの卯城竜太を招き、中島との対話を収録することとなった。2人のアーティストが交わした郊外、近代、個と公を巡る議論をここにお届けする。

ニュータウンのヤバさは、「何も起きない」ことのヤバさ。(卯城)

中島:去年の『NEWTOWN』の展覧会『ニュー・フラット・フィールド』のテーマがまさに「ニュータウン」だったんですけど、その際に重視していたのは都市郊外にある集合住宅地帯「から」語ることの当事者性でした。企画者3人はみんなニュータウンの生まれで、ニュータウンで生まれ育った連中がニュータウンについて語るという展覧会でした。

卯城:(中島)晴矢くんはどこで育ったの?

中島:横浜の港北ニュータウンです。ショッピングモールのなかにシネコンがあって、モールの屋上には観覧車まである。テーマパークっぽい場所でした。

左から:卯城竜太(Chim↑Pom)、中島晴矢

卯城:ニュータウンが少子高齢化の影響で廃墟化してるって話を聞いたことがあるけど。

中島:じつはそんなこともないんですよ。例えば多摩ニュータウンは、実際、入居数の減少で衰退した時期もあるんですが、いまはまた復活して少しずつ住人が増えているそうです。祖父母も郊外に居を構え、両親がニュータウンで暮らしてきて、言ってみれば(郊外)三世が自分なんです。

卯城:でも、晴矢くんみたいな文化人気質な人としては、ニュータウン育ちってひとつのアイデンティティでもあるわけでしょ。それはプロレスの作品を見て感じたよ。作家としては表現に活かしやすい環境なのかな。

中島晴矢『バーリ・トゥード in ニュータウン-パルテノン-』映像, 2017

中島:活かしやすいというよりは、作家としてのバックボーンになるような大きな物語が無いんですね。ゲットーで育ったとか(笑)。結局、自身のルーツを見つめ直してみたら、ある意味で情けない故郷としてのニュータウンしかなかった。

卯城:映像のテイストや演出が妙に無機質で独特だった。そういうニュータウンのイメージは、みんなどこかで共有しているもので。すごく均質で、大勢の人間が生きてるはずなのに空気が動いている感じがしない。そのヤバさは1980年代くらいのアメリカのホラー映画が扱ってた郊外とは別の、「何も起きない」ことのヤバさというか。

今、郊外を取り扱うとしたら「川崎ノーザンソウル」と「川崎サウスサイド」の両方を表現しないとダメだと思うんです。(中島)

卯城:うち(Chim↑Pom)のメンバーの稲岡(求)くんが、練馬の光が丘ニュータウン出身なんだけど、すげー変な人なの。狂っているんだけど、掴みどころがない。

エリイちゃんはマッドに狂っているし、岡田(将孝)くんはシュールでカスい狂い方をしてるけど、二人とも可愛げがあって、日本の自虐的な文化の美観にハマるから愛でられる狂気ではある。でも稲岡くんは、十何年も付き合っているのにマジで誰も理解できない時が多いんだよね(笑)。え、この人いったい何考えているんだろ、みたいな。環境ってより天然なのかもだけど、でも、ニュータウン出身と聞いて「なるほどな」って腑に落ちた感じがあった。フラットで浮き沈みがなく、でも狂ってる、という。

卯城竜太(Chim↑Pom)

中島:ニュータウンは人も街自体も静かに狂っていると思います。表面は綺麗にコーティングされているから表に出てこないんだけど、じつはいろんなものを排除して成立してる空間ですからね。

卯城:ニュータウンのヤンキー文化はどうなの?

中島:僕の生まれ育った港北ニュータウンやたまプラーザに限って言うと、ヤンキーはいなかったんです。ヤンキーは地域社会に根差すもので、その頃のニュータウンではローカル=地域があるように見えても、新しいもので歴史が浅い。でもいっぽうで建設から半世紀が経って、あらためて地域として見直す時期に差し掛かっているとも思うんです。

展覧会を企画するうえでヒントになったのが、音楽ライターの磯部涼さんが書いた『ルポ 川崎』という本です。ヒップホップグループのBAD HOPを皮切りとしたルポルタージュなんですが、前提として神奈川県川崎市の北部と南部の空気がまったく違うということを言っています。小沢健二やスチャダラパーが出てきた北部は静かに狂っているけれど、逆に明るさもあって、ある種の憂鬱さに支配されている。

中島晴矢

中島:小沢健二はそれを「川崎ノーザンソウル」っていう風に表現しましたが、BAD HOPは川崎南部をゲットー的な「川崎サウスサイド」と言うわけです。たしかに彼らの拠点である池上町は、工業地帯で殺伐としていて、リアルな現場の空気がある。今、大都市周辺に広がる郊外を取り扱うとしたら、その両方を表現しないとダメだと思ったんです。

卯城:工業地帯って特有の文化があるよね。ヤンキー的にはエリートなイメージがある(笑)。

中島:あと見方を変えれば、ある世代以降の日本人は出身地に関係なく、みんな郊外的な空間で育ったとも言える。かつて言われたような「都市 / 農村」「都会 / 地方」っていう二項対立は成立しにくくなっていて、1970年代以降はすべてが郊外化して、どの都市に行ってもだいたい駅前にショッピングモールがあってイオンがあるというような風景になっている。

卯城:近所づきあいがなくなって、住んでいるところに対して「自分たちの街」ってリアリティーがわかない。実際、俺もそうだもん。いま住んでいる高円寺は、街としては特色のすごいある場所だけど、何世代にもわたって受け継がれてきたような伝統によってそうなっているとは言い難い。変な人たちが外からたくさんきている感じだから、特に誰かに気をつかう必要もなくて気楽。ていうか俺、マジで近所って概念が超苦手なんだよね(笑)。

中心もない。その不在が郊外も含めた東京の複雑さを形成している。(卯城)

中島:もう一つ、今回取り上げるのが「ロードサイド」。ニュータウンとそのまわりの郊外をつないでいる国道沿いの風景です。空族っていう映画のクルーが作った映画『サウダーヂ』や『国道20号線』では、国道沿いのファミレスとか大型量販店といったロードサイドビジネスの店舗しか建っていない、その中で人が生きている風景にカメラを向けている。

卯城:昔、小平の青梅街道と府中街道が交差するあたりのアパートによく通ってたんだけど、100メートルくらいの道にある看板を眺めて「世界の全部があるわ!」って思ったのを覚えてるよ。Appleもあればマックもドンキもヤマダ電気もあって、まるで資本主義社会の縮図みたいだった。完璧に、人為的に改造された街区が広がっていて。

『SUPER RAT -Scrap & Build- 2017-』 / 『また明日も観てくれるかな?』展にて発表され、歌舞伎町商店街振興組合ビルの解体とともに壊された、歌舞伎町のジオラマとスーパーラット / 撮影:森田兼次 提供:Chim↑Pom Studio

卯城:ニュータウンって日本独特のアイデンティティーなのかな。郊外ってことであれば世界のいたる場所にあって、世界的にも普遍性があると思うんだよね。例えばランドアートの作家として知られるロバート・スミッソンは作家になる前にミニマリズム(1960年代半ばのアメリカで起こった美術動向)の評論家でもあったけれど、その延長線上で、同じタイプの建築が連続している荒廃したアメリカ郊外の写真を撮りまくっているんだよね。それがたぶんスミッソンのなかではミニマリズムと接続されていて、その延長としてランドアートが登場してる。

中島:ニュータウンや郊外の発想はもともと欧米で生まれたアイデアで、例えば「田園都市」という概念は、それまで個別にあった農村、都市、住居、仕事場を全部一緒にしてしまう空間として都市計画家のエベネザー・ハワードが提唱したものなんです。アメリカではかなり計画的に造成されて、ニューヨーク州のレヴィットタウンはその好例なんですが、日本にはだいぶねじれたかたちで輸入されたんですよね。あくまでも都心を中心に据えて、その周辺へと無秩序に継ぎ足されていったのが日本型の郊外です。

『NEWTOWN 2017』美術展:『ニュー・フラット・フィールド』「愛憎の風景」より左から、かつしかけいた、佐藤研吾『一度、大地を眺め見るための椅子』(2017)、小林健太『自動車昆虫論』(2017) / Photo:Katsura Muramatsu

卯城:たしかにアメリカは自動車文化だから、都市ごとにすべての機能が集約されて完結してる。どこの首都もコンパクトにまとまってるしね。それに対して東京は、渋谷も新宿も秋葉原も高円寺もすごい離れていて、世界のどの大都市とも似ていない。かつて江戸城があった中心から円を描くように拡がる都市作りがベースになっているからだけど、今はその江戸城自体がない 中心の不在が郊外も含めた東京の複雑さを形成している。

中島:思想家のロラン・バルトが言った「空虚の中心」ですよね。そのまわりでどんどん膨張してきたものだから、都市の性格を一口に言えない。グレーゾーンがすごくある。

卯城:外国のダイバーシティー化されている都市に行くと、逆にグレーゾーンのなさに引くくらいだよね。ここはジャマイカタウン、ここはインドタウン、って明確に線引きされている。歩いていたらいつのまにか別の街にたどり着いている東京とは全然違う。

中島:評論家の小田光雄さんが、住民の社会階層が混住している状態を「混住社会」と言っています。もともと農家と非農家が混じったニュータウンが「混住社会」って言われていたんですが、例えばコンビニの店員の多くは移民外国人になっていて、もはや多様な混住がスタンダードになっていますよね。

ニュータウンにしても、川口や横浜では外国人世帯の数が急増していて、まさに混住しています。そういった現代的な混住の状況を表現する必要もあって、今回はテーマを広げたんです。ニュータウンだけに閉じていては語れないことがある。

大正時代の美術には関東大震災の問題も関わっていて、いかにサバイブしていくかってことが問われている。(卯城)

卯城:俺さ、いま自分の人生ではじめて美術史にハマっているのね。それは大正時代の美術についてなんだけど、なぜか日本のアートシーンでこの時代のことがほとんどブラックボックス化されて表面に出てこない。でもいろいろ調べてみると、めちゃくちゃヤバい作品や作家やコレクティブが溢れ出ていて、1960年代を前衛芸術として参照するよりはるかに面白いんだよね、個人的に。その時代と今の時代の共通点もたくさんあって、まるで今の世の中のパラレルワールドかと思えるような。

卯城:で、明らかにその運動の過激化の契機になっているのが関東大震災で、グラウンドゼロでサバイブしたアーティストたちによる、都市論や暮らしや身体性のテーマ化がめちゃくちゃおもろいわけ。そこから国威発揚して国策としての芸術がうまれて戦争に突入していくプロセスも、なんだか他人事には思えなくて。いまの日本の都市論と芸術を考えることと、この時代について知ることが、もはや俺の中ではほぼイコールになっている。詳しいことは今度、ウェブ版『美術手帖』で書く予定だからここでは言いたくないけれど(笑)。

中島:僕が文学やアートについて興味があるのは、日本が近代化以降に抱えてきた「ねじれ」なんですけど、その延長でいちばん好きなのが大正文学なんです。横光利一という人を中心に立ち上がった「新感覚派」という文学運動がすごく重要で、近代化がある程度済んで、成熟期である大正時代に「自分は何をすべきか?」という疑問から横光と新感覚派は出発している。

そして、彼らの芸術は完全にアヴァンギャルド。同時代にヨーロッパで展開していたダダやシュルレアリスム、キュビズムといった動向を完全に輸入して、自分の作品にフィードバックしていた。

卯城:輸入のスピードも今より全然早いのよ。いま例えばヒト・シュタイエル(ベルリン在住のアーティスト)の批評が翻訳されるのなんて何年かかるでしょ。けどマリネッティの『未来派宣言』が1909年にイタリアで出たその年に、森鴎外がもう日本語訳してるんだよね。ネット社会の今より早いのは、たぶん世界への好奇心が今よりあったからなんだろうなとか思うけど。

『NEWTOWN 2017』美術展:『ニュー・フラット・フィールド』「愛憎の風景」より、原田裕規『家』(2017年)、山根秀信『オブジェー風景(THE BIG)」』(2004年) / Photo:Katsura Muramatsu

中島:未来派は近代化の象徴として機械文明を賞賛した芸術運動ですが、横光は後に『機械』って小説を書いてます。同作が書かれた昭和5年(1930年)はいわゆる戦間期で、日本の文化が最先端にあった大正期と、その後のにっちもさっちも言っていられなくなる戦争の間の絶妙な時代で、文学のレベルもものすごく高かった。それはアートも演劇も同様です。

卯城:Chim↑Pomがやってきたことにも通じるものがたくさんあって、例えばコレクティブアートやポリティカルなアートの始祖はこの時代だし、パフォーマンスと身体を使って世に出てきたウチらが、いま、都市論とかをやってる変に矛盾めいた一貫性も、この時代の前衛芸術の動向を俯瞰してみると理解できる様になるわけ。さっき言った様に、関東大震災で都市の破壊を経て、生活の感覚や身体の感覚、そして復興にさいしてあるべき都市論を、いかにして取り戻すか、サバイブしていくかってことがテーマになってるように思えるんだよね。それって欧米の同時代のダダイズムとなんか違くて、日本のアートがユニーク性を持ち得た感じがあるんだよね。

無意味性や無意識の領域を追求したように見える欧米のアートと違い、そのどこか切実でユースフルな感じは、エクストリームにコンセプチュアルな欧米の今の流行りに、どうも染まり切らない今の日本のアートの雰囲気にもハマると思ってる。

そうやって大正時代を考えてると、あれ? 日本って当時はめっちゃ良い場所じゃんって思うわけ。ナショナリズム的な話じゃなくて、必ずしも「悪い場所」をアイデンティティに日本のアートを考えなくても良いじゃんって思う。

最近キーワードになってるのが「アーティストってそもそも何だったっけ?」ということ。(卯城)

中島:さきほど大正以降の人たちがいかにサバイブしていくか、って言ってましたよね。じつは今回の展覧会のタイトルがまさに『SURVIBIA!!(サバイビア)』(笑)。郊外やニュータウンって場所が昔言われたような病理から解放されても高齢化や老朽化という現実に接している一方で、例えばKOHHやANARCHYのようなラッパーが団地から出てきたのを見ると、危機的な都市の状況からむしろ文化が生み出されている感じがします。

中島:つまり郊外(suburbia)を、サバイブ(survive)する。関東大震災後に新たな前衛文化が出てきたことともリンクするし、そもそもヒップホップが生まれたのもニューヨークの都市計画に失敗したサウス・ブロンクスのプロジェクト(公営団地)ですよね。都市計画家のロバート・モーゼスの構想が破綻して、めちゃくちゃに荒れ果てた瓦礫からグラフィティなんかが生まれてきた。その文化のエネルギーのすごさに圧倒されるんです。

卯城:震災もヒップホップの成り立ちも全部そうだけど、そういうインフラがないところから立ち上がって来る個人の身体的な表現こそが、一周してその後の公共や文化、アイデンティティーを作る、最も根本的なアイデアになるんだろうな、と思うわけ。この間終了した『にんげんレストラン』は、まさにイメージで行ったプロジェクトだった。今の都市は、容れ物とか公共っていう大きいものをまずは作ってしまうでしょう。でも、本来の基本は人々。個人がたくさん集まるから公が必要になって、公が作られた。その順番が自然なはずなんだけど、今は誰かが最初に公を作って、そこに入ることのできる個が取捨選択される状況になってる。

例えば建築的に、何か建物やスペースを作る時、人間の行動パターンを考えながらデザインされるけれど、それは多くの人に共通するマジョリティとしてのパターンに基づくわけでしょ。だけど実は人間て一人ひとりは、感情の表し方も考え方も動き方も違うわけで、バリエーションは無限にあってもいいわけ。イレギュラーなんて考えも本来なくて良いはずなんだけど、都市や建築のデザインにとっては、まずはそれを相対化しなきゃ容れ物の作り方を考えにくくなる。そこで個人の感情や身体感はマジョリティをベースにしたスタンダードへと相対化されてしまう。

中島:今回の展示でひとつの核になっているのが、じつは大阪にある千里ニュータウン。ここは1970年の『大阪万博』の跡地で、日本の近代化がある程度終わり、そして郊外化していく始まりの場所なんですよ。つまり、岡本太郎の『太陽の塔』を除いて、個の身体が持つノイズみたいなものが考えられてない場所。僕の次のプロレスの作品は、その千里で撮影していて、プロレスという身体パフォーマンスのノイズを郊外に介入させていく。あるいは、建設中の新国立競技場前で延々とシャトルランをする作品なんかも、「公」と「個」の接続をする試みだったんです。

中島晴矢『Shuttle RUN for 2020』映像, 2017

卯城:あの作品は良かったよね。それこそ「公」と「個」のギクシャクした関係がエモかった(笑)。今回の対談は都市論がテーマなんだろうけど、いまウチらにとって、公を考えることってのは、個を考えることとイコールになっているんだよね。その個のエクストリームの振り幅としてアーティストっていう存在がいるんだろうけど、アーティストも最近は公なるものにその個を委ねすぎな風潮があると思う。

例えばキュレーションとかアートフェアとかの中で機能する作品、みたいなものに作家が収まりがちで、「アーティストってそもそも何だったっけ?」思っちゃう瞬間がめっちゃある。キュレーターが描くストーリーも良いんだけど、グループ展の印象がそれしか思い出せないってことが往往にしてあるでしょ。作品が思い出せない、アーティストが思い出せない、ってのは、公と個の関係について考える時に、悪い意味で今っぽいなーとか思っちゃう。

中島:本当は作品を記憶に残したいですよね。

『マンホールの蓋』本取材場所であった、高円寺キタコレビル、Chim↑Pom通りの断面標本である土壌モノリスを展示する、地下への通路を塞ぐ蓋 / 撮影が森田兼次 提供:Chim↑Pom Studio

卯城:そういう状況の中で、「個」とか「アーティスト」っていうのをもう一回問い直さないとダメだと思う。けどそういう事ってむずくて、俺だってその罠に陥いることがある。例えばChim↑Pomの活動をプレゼンする時に、1時間とか2時間に収まる大雑把なストーリーでウチらの全体像を語るでしょ。で、そこに収まりやすい作品を俺も取捨選択しちゃうわけ。例えば社会的な実践をテーマにする時には、福島や広島、メキシコのプロジェクトや歌舞伎町でやった『また明日も観てくれるかな?』とか、台湾でやった「道」の話をする。で、そのストーリーに稲岡くんがガリガリに痩せて即身仏化する作品や、エリイちゃんがゲロ吐いている作品の「個」の身体感まで含めようとすると、あまりに複雑になっちゃうんだよね。けどそもそもウチらってバラバラな6人が集まってやってるわけじゃん。その複雑化を避けようとする自分や、キュレーター的になりがちな自分の気質に危機感がある。

実は11月からANOMALYで始まるChim↑Pomの個展『グランドオープン』はそういうことがテーマになっていて、うちらにとっては大事な契機になりそうなんだよね。そもそも個のおかしみを集団狂気で表現していたウチらが、そのうち道を作ったりと公を表現するようになってきて、話してきたような疑問とともに今に至る。どう公と個のギクシャクした関係をさらに一歩前へと進められるか。どうキュレーションを脱却するか。そういうことが一体になった個展になる予定です。

Chim↑Pom『ERIGERO』(2005年)
『Making of the 即身仏』(2009年)

中島:ちゃんとキュレーションするのって今回が初めてなんですけど、自分が職業キュレーターではないからやれている気がするんですよ。大雑把なストーリーで説明しきろうとは思わないし、説明できないから今一番面白いと思う人たちを呼んでいるのであって、言ってしまえば「個」としての判断でやっているんです。その意味で、「個」と「公」、個人の身体的なパフォーマンスと都市や建築との間の親和や齟齬、それはずっと作家としてモチーフにしてきたし、『SURVIBIA!!』はそのテーマを全面展開させた展覧会になると思ってます。

イベント情報
『NEWTOWN 2018』

2018年11月10日(土)、11月11日(日)
会場:東京都 多摩センター デジタルハリウッド大学 八王子制作スタジオ(旧 八王子市立三本松小学校)

美術展:『SURVIBIA!!』(サバイビア!!)

校舎内を利用して、「郊外を、生き延びろ。」(Survive in Suburbia.)をテーマにした美術展を開催。「ノーザン・ソウル」+「サウスサイド」+「ロードサイド」からなる「郊外」を提示することを試みます。映画部屋で参加作家の作品も上映予定。

日程:2018年11月10日(土)、11月11日(日)
時間:10:30~19:00
キュレーション:中島晴矢

『EXPO-SURVIBIA -千里・万博・多摩-』
秋山佑太
石井友人
キュンチョメ
中島晴矢
FABULOUZ
原田裕規

『変容する周辺、近郊、団地』
[URG]
石毛健太
衛藤隆世
EVERYDAY HOLIDAY SQUAD
垂水五滴
中島晴矢
名越啓介
BIEN
yang02

『PERSISTENCE_suburb』
[PERSISTENCE]
新井五差路
百頭たけし
藤林悠

『川崎ミッドソウルーーアフター「ルポ 川崎」』
細倉真弓
磯部涼

映画『サウダーヂ』上映
空族

トークイベント『死後の〈郊外〉—混住・ニュータウン・川崎—』
11月10日(土)14:00~15:30
小田光雄
磯部涼
中島晴矢

トークイベント『都市・郊外・芸術ー計画と無計画の間で』
11月11日(日)14:00~15:30
会田誠
中島晴矢

『SURVIBIA!!』クロッシング・トーク
11月11日(日)17:30~19:00
出展作家多数

チケット料金:無料

イベント情報
Chim↑Pom
『グランドオープン』

2018年11月22日(木)~2019年1月26日(土)
会場:東京都 天王洲アイル ANOMALY
時間:11:00~18:00(金曜は20:00まで)
休廊日:日曜、月曜、祝日、12月23日~1月14日

プロフィール
Chim↑Pom (ちんぽむ)

2005年、卯城竜太・林靖高・エリイ・岡田将孝・稲岡求・水野俊紀により結成。時代と社会のリアルに全力で介入した強い社会的メッセージを持つ作品を次々と発表。東京をベースに、世界中でプロジェクトを展開する。2015年アーティストランスペース「Garter」をオープン、キュレーション活動も行う。福島第一原発事故による帰還困難区域内で、封鎖が解除されるまで「観に行くことができない」国際展『Don't Follow the Wind』をたちあげ作家としても参加、2015年3月11日にスタートした。近年の主な著作に『芸術実行犯』(朝日出版社)、『SUPER RAT』(パルコ)、『エリイはいつも気持ち悪い』(朝日出版社)、『Don't Follow the Wind』(河出書房新社)、『都市は人なり「Sukurappu ando Birudo プロジェクト」全記録』(LIXIL出版)がある。

中島晴矢 (なかじま はるや)

Artist / Rapper / Writer。1989年、神奈川県生まれ。法政大学文学部日本文学科卒業・美学校修了。美術、音楽からパフォーマンス、批評まで、インディペンデントとして多様な場やヒトと関わりながら領域横断的な活動を展開。重層的なコンテクストをベースに、映像や写真を中心としたミクストメディアで作品を発表している。主な個展に「麻布逍遥」(SNOW Contemporary / 東京 2017)、「ペネローペの境界」(TAV GALLERY / 東京 2015)、「上下・左右・いまここ」(原爆の図 丸木美術館 / 埼玉 2014)、「ガチンコーニュータウン・プロレス・ヒップホップー」(ナオ ナカムラ / 東京 2014)、グループ展に「The Calm Before the Parade」(space dike / 東京 2018)」、「ニュー・フラット・フィールド」(NEWTOWN / 東京 2017)、「ground under」(SEZON ART GALLERY / 東京 2017)、アルバムに「From Insect Cage」(Stag Beat / 2016)、テキストに「アート・ランブル」(Ohta Collective / 2018~)など。



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