今年で4回目となるカルチャーイベント『NEWTOWN』。多摩ニュータウンを舞台に、『ニュー・フラット・フィールド』(2017)、『SURVIBIA!!』(2018)と、これまで2回の美術展が開催されてきた。それは「ニュータウン」や「郊外」という場の意味を当事者性によって掘り下げることで、現代社会の様相を浮き彫りにしてきた。
3回目となる今回の美術展では、インディペンデントキュレーター青木彬による企画展『Precious Situation』が開催される。美術展が多様な価値観と出会うきっかけを作る場を目指し、作品が生み出す「交歓」をメインテーマに設定。参照点となるのは、国内では大正期に活発化したボランティア活動「セツルメント運動」だという。
青木は「セツルメント運動」を、地域コミュニティーや社会福祉とアートがオーバーラップした活動だったと捉え返す。美術制度に頼らない場所で、作品を通じて地域の人々が「交歓」(互いに親しく交わり楽しむこと)する場の創出を実現するため、さまざまなアーティストやプロジェクトを招聘する本展は、一体どのようなものになるのだろうか?
ゲストに大正期の美術動向にも詳しい美術評論家の福住廉を迎えて、『Precious Situation』展の構想のみならず、アートプロジェクトのあり方から都市空間と想像力の関係、アウトサイダーアート論に至るまで、青木の携わっている墨田区吾妻橋で改装中のオルタナティブスペース『喫茶・野ざらし』にて話を聞いた。
現代のヒントになりうる。大正時代のボランティア活動に精を出していた柔軟なアーティストたちの「セツルメント運動」
青木:僕はキュレーターを名乗っていますが、どちらかというと美術館やギャラリーといったホワイトキューブ(美術の展示空間全般を指す代名詞)より、改装中の倉庫や街中で展覧会を企画することが多かったんです。『NEWTOWN』はいわゆる美術制度ではない場で行われるアートプログラムなので、そこを意識して企画ができればと考えました。
そのときに、このプログラムは最近僕が関心のある「セツルメント運動」と結びつけられると思ったんです。セツルメント運動は社会福祉に属するものですが、大正時代に様々なアーティストが関わっていました。その他にも大正時代には美術家が自分の娘の進学をきっかけに学校を作ったり、すごくクリエイティブな実践をしていた精神科医がいたり。
また調べていくと、セツルメント運動の源流はイギリスにあり、そこにはニュータウンの原型である田園都市(ガーデンシティ)を構想したエベネザー・ハワードの元で住宅や地域計画に取り組んだ建築家、レイモンド・アンウィンがいます。彼はセツルメント運動の理念に関わるウィリアム・モリス(19世紀イギリスのデザイナー、詩人)やジョン・ラスキン(19世紀イギリスの美術評論家)らから深い影響を受け、郊外で理想的なコミュニティーを実現することを目指していました。そういった歴史を見ていくと、多摩ニュータウンにおける祭りを通じた地域コミュニティーの形成を、これまでの美術展とはまた違った角度から表現できるのではないか、と思ったんです。
福住:僕はセツルメント運動について詳しくないんですが、日本で勃興したのは関東大震災の後ですか?
青木:そうですね。諸説あるんですが、やはり東京だと関東大震災が大きなきっかけとなって生まれた運動でした。
当時、東京帝国大学(現・東京大学)がセツルメント運動の拠点としてセツルメントハウスという建物を作っていて、その中ではたとえば、法律相談や労働環境の整備、アーティストによる子どもたちとのワークショップなどをしていたそうです。実は当時のアーティストたちは、柔軟にボランティア的な活動にコミットしていた。こういうことは、あまり美術史の中では触れられることが少ないのではないでしょうか。
福住:おもしろい! ものとしての作品を残すというより、いまの言葉でいう「アートプロジェクト」をやっていたということですよね。既存の美術史は作品の様式をもとに語りますから、当然、そうした活動はジャンルとジャンルの狭間に埋もれてしまいます。建築の歴史からも美術の歴史からも振り落とされてしまう。
もちろん、いまはアートプロジェクトという言葉ができたので、それまで分類しがたかったいろんなジャンル間の活動を回収できるようになりました。けれども、なぜ大正時代がおもしろいのかというと、まだジャンル自体が未確定な部分があるからです。
―時代ごとにジャンルやアート間の境界が変化してきた歴史の中では、大正という時代はどのようなものだったと位置づけられるんでしょうか。
福住:明治期は、江戸を振り切り、西洋の美術を受け入れてどう社会に定着させるかに必死になっていた時代。また昭和に入ると、戦争に向かって突き進んでいく「翼賛体制」というフレームが出てくる。そのあいだで、大正は歴史の枠組みがはっきり固まらず、各ジャンルが生まれる前のエネルギーがうごめいていた時代だと思うんです。
関東大震災でそれまでの常識がぶっ壊れて、「なにかやらなければならない」というモチベーションがあったはずです。そう考えると、特に東日本大震災を経験した現在、大正時代以降の問題意識を共有することで得るものは大きい。その意味で、セツルメント運動はもっと知られるべきかもしれませんね。
作品だけでなく、作る過程を関わった内部の人間が見る。新しい批評のあり方
―現在の「アートプロジェクト」のひとつの源流が、大正時代のセツルメント運動に代表される運動に見て取れるわけですね。おふたりは、現在のアートプロジェクトをどのように捉えているのでしょうか?
青木:アートプロジェクト、特に地方の芸術祭に対して「地域アート」(藤田直哉)という批評的ないい方が出てきたときに、現場から批判の声が上がりました。市民の様々な実践をひとくくりにしてしまう言葉だったからです。でもその一方で僕は、アートプロジェクトに関わっている人たちが現場に固執してしまっているとも感じました。
アートプロジェクトには膨大なプロセスがあるにもかかわらず、展覧会という場所と期間が限定された枠組みで作品が発表されます。たとえば鑑賞者は展覧会でしか作品を見られないのに、現場はそれだけでは見えないプロセスの要素を「ちゃんと見て」といってしまう。それってお互いに不健康な関係だと思うんです。だからプロジェクト側は、そうしたプロセスも含めてどう作品化して発表していくかという部分をもっと練らないといけない。
以前、福住さんはアートプロジェクトに対して「批評を内在化すべき」とおしゃっていましたよね。たとえばあるプロジェクトに関わっているボランティアの人たちの言葉を拾っていくことも批評になり得るのではないか、とスクリーニング的な視点を提示されている。そうした働きかけの中から、アートプロジェクトというものの評価を内側からも作っていかないと、なかなか外には届かないと思うんです。
福住:たしかに批評家は一時的に展示を見て評価することしかできない。つまり外在的にならざるを得ない。だから、ボランティアなり地域住民なり、内側で現場を見ている人が、批評的なまなざしと言語を持って、そのプロジェクトを内側から客観的に捉え直すようなことができれば、従来の批評家ではなしえない、新しい評価基準や言語が生まれるんじゃないかと思っています。それが「批評の内在化」です。実際、来年の『東京ビエンナーレ』に向けて、いまそうした人を育てるスクールを準備しています。
青木:アートプロジェクトが切り開いてきた道があるのは確かです。だからいまは現場の人たちがその可能性を受け止め、どのように見せるかの準備をしていく段階なんじゃないでしょうか。美学的ではない価値をちゃんと拾わないと、たとえば「アートと地域」「アートと福祉」といったように、常に「アート×〇〇」という形でしかアートの存在意義が見つけられなくなってしまいます。
一方で戦後美術史観からこぼれ落ちている運動を見返すと、アートが「生きる術」としてどう生活の中にあるべきかのヒントを見い出せるのです。当時の人はコミュニティーをよく作ります。宮沢賢治や武者小路実篤もそうですし、それは日本だけではなく世界的な動向でもあった。1901年にはインドで「シャンティニケタン」という野外学校が作られます。それを作った詩人のラビンドラナート・タゴール(『ノーベル文学賞』を受賞したインドの詩人、思想家)は「全ての人間は芸術家である」と訴えていました。おもしろいのは、岡倉天心がそこに視察に行っていることです。タゴールもまた、天心を訪ねて東京に来たことがありました。1900年代初頭って、そういうオルタナティブな交流がうごめいていた時期なんです。
福住:哲学者の鶴見俊輔が『限界芸術論』(1999年 / 筑摩書房)の中で、アナンダ・ケイ・クーマラスワミという人の言葉を引いています。クーマラスワミもインド系で、岡倉天心の後にボストン美術館の東洋美術部長になった人。タゴールとほぼ同時代を生きた人ですが、「特別な芸術家がいるのではなくて、それぞれの人間がみんな特別な芸術家なんだ」といっている。戦後ドイツで「社会彫刻」を唱えたアーティストであるヨーゼフ・ボイスがいうより、ずっと前にです。そういう見えないオルタナティブな系譜がありますね。
イマジネーションの規模感は育った空間に制約されるか。アートと都市の関係を考える
―『NEWTOWN』の美術展はまさに「地域アート」の要素をはらんでいます。これまでも会場である多摩ニュータウンを軸に、「ニュータウン」や「郊外」というテーマを展開してきました。それは広く「都市」と向き合ってきたといえると思います。青木さんは以前「アートは都市を記述するもの」と書いていましたよね。
青木:はい。建築関係のメディアで「アートは都市を再編できるか?」というお題に対し、僕は「できない」と応答しました。というのも、アーティストは実際に都市を形作るより、風景画で市街を描いたり、カメラを通して人間の目とは異なる都市のディテールを捉えたり、グラフィティーで都市の隠れたコードを暴いたりしてきたからです。それらは都市計画ではできないことですよね。アーティストはより鮮明に都市の姿を「記述」し続けてきたんです。
いまアートはいろんな分野と協働したり、「まちづくり」に関わったりしていますよね。それはある意味で、それらを「隠れみの」にして生き残るアートの「サバイブの術」だと思っています。その中で、いかにアーティストが都市計画の目的からちょっと外れた「誤配」を届け、街中に隙間を作っていくか。これはもう、ある種の戦いだとすら考えています。
だから、東京でアーティストたちが運営する小さなオルタナティブスペースが増えていることに可能性を感じます。行政区をいじるような大規模なことは簡単にできませんが、街というフィールドの中で、アーティストは政治家や民間企業、自治会のおじさんと対等に関わることができる。そこで既存のフレームに収まらないような空間を作り上げる意義は、まだまだあると思うんです。
福住:たしかに「コード化」と「脱コード化」というものがあるとすれば、明らかにアートは「脱コード化」の側ですよね。既存のものをズラしたり組み替えたりするところに、新しい表現やクリエイションを見出すわけですから。だから本質的に、アートは都市計画的な発想と馴染まないということを前提にしないといけないのかもしれません。
「都市とアート」ということでいえば、最近考えていることがあります。僕は板橋の高島平にある団地で生まれ育ちました。そういうイマジネーションの根っこにある原風景や空間が、自分たちの表現や発言を大きく制約しているんじゃないか、という気がしているんです。
以前青木くんに聞いた大正時代の福祉の話で、病院の敷地に巨大な庭を作った精神科医がいましたよね。予算や場所の問題じゃなく、僕らにはそもそもその発想がないのかもしれない、ということがショックだったんです。大正時代の人の想像力の幅やたくましさに全然かなわない。その一因には、ニュータウンや団地で生まれ育ったという限界がどうしてもあるんじゃないか。現状の都市計画のあり方に不満を覚えたとしても、それを乗り越えるような「想像力の根性」みたいなものが自分たちに足りてないように感じてしまうんです。
そう考えると、大正時代の人に学ばないといけないのは、なにかを具体的な形にするとか、学校や庭を作ってしまうといった、イマジネーションの根っこにあるモチベーションの「質」なのではないでしょうか。
青木:よく分かります。いまの若い人たちの作品は規模感が変わってきている。現在のアート作品が必要としている空間と、すでにある空間との間にギャップがあって、それがどんどんフラジャイルになってきているんです。作品でスペクタクルな体験を提供するために大きい空間が必要かというとそうでもなくて、それをあてがわれても、おそらくアーティストは手持ち無沙汰になってしまうと思います。もしかすると小さいオルタナティブスペースがいくつもできているのは、自分たちが発表したい作品と空間の規模感が、実はそこでマッチしているからではないでしょうか。
一方で、福住さんがいった精神科医というのは呉秀三(日本における近代的な精神病学の創立者)のことですね。かなり革新的な人で、監禁されていた精神障害の人たちを解放すべきだと訴え、患者と一緒に養豚や農業をやったり、建物の修繕をしたりしていました。そうした中で外部の庭師を講師に呼んで、みんなで庭や池、小山や東屋まで作るんです。その様子はほとんど土木作業(笑)。関東大震災をまたいで完成させました。
その庭園は『Japanese Garden』という当時の日本の庭園を海外に紹介する本に「アート」として取り上げられました。おもしろいのは、それに対して院長が距離を置いたこと。彼は必ずしもそれがアートだとは判断していなかったらしいんです。医療としての切実さがあるからこそ、安易にアートだとは認めなかったんですね。
生活や福祉に切実なものをアートと呼ぶ「アートの暴力性」と向き合う必要性
―空間と想像力が密接な関係にあるという指摘は興味深いですね。精神病院の話題が出ましたが、今回の『Precious Situation』展も福祉や医療との接続が企図されています。それはどうしてなのでしょう?
青木:僕自身が「児童福祉とアート」に関するプロジェクトに関わっていたり、大正やセツルメント運動への関心があったりする中で導き出したテーマです。最近いわゆるアウトサイダーアートが流行ってますが、それも障害者の人が描いた絵や立体という形で、結局はモノに還元されていますよね。だから、たとえば「福祉」という理念そのものにアート性を見出したプロジェクトを起こすことはできないか、と考えていて。出展作家の1組である「dear Me / ディア ミー」にはそういう要素があります。作品を鑑賞するというよりは、体験することで自分が変容していくんです。
が、2016年より行うアートのプログラム。子どもたちや若者、日本や海外の国からのアーティストと一緒にアートを作る「ワークショップ」、自分の言葉やみんなの考えを知る美術館への「お出かけ鑑賞プログラム」、そして、アートの考えを取り入れた「まなびの場」作りをしている。" zoom="https://former-cdn.cinra.net/uploads/img/interview/201910-aokifukuzumi_kngsh-photo10_full.jpg" caption="dear Me / ディア ミー『どんどこ! 巨大紙相撲 星美場所』(2018年) Photo by Yukiko Koshima「dear Me / ディア ミー」は、現代アートの学びや表現の場をつくるNPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ[AIT / エイト]が、2016年より行うアートのプログラム。子どもたちや若者、日本や海外の国からのアーティストと一緒にアートを作る「ワークショップ」、自分の言葉やみんなの考えを知る美術館への「お出かけ鑑賞プログラム」、そして、アートの考えを取り入れた「まなびの場」作りをしている。"]
福住:ただ、さっきの精神科医、呉秀三の話につなげれば、アウトサイダーアートや「限界芸術」の持つ本質的な難しさは、当事者と僕らとの間の落差が常に存在するということです。つまり、「これはアートです」「芸術です」と名指しても、向こうはそれとは全然別の次元でモノを作っている。だから意味づけして特定の文脈に回収することには、倫理的な問題がつねにつきまとうんですよ。
それはアウトサイダーアートに限らず、これはファインアートではないと表明して街中に出ていったりしても変わりません。どうしても真ん中に「アート」というものがドカンとあって、そことの距離を測るようになってしまう。「アートだ」というフレーズはいくらでもいえるけど、そのように名指された人たちがそれをどう受け止めて、それがその人たちの人生にどう関わるかというのは全く別の話。基本的にはなにも変えられないと思ったほうがいいのかもしれません。
青木:無自覚に「アートだからいい」というのではなく、「アートの暴力性」のようなものをきちんと自覚した上でコミットしなければならない、ということですよね。
福住:福祉なのか人生そのものなのかわからないけれども、アート界にはそれらを丸ごと包括するような図々しさがあるじゃないですか(笑)。アートとしてタッチできる面はたしかにあるんだけど、それはやっぱり物事の一面にしか過ぎなくて、その人の大切な部分はもっと他にある。それを理解していないと、足元をすくわれてしまいますよね。
『NEWTOWN』で見られる美術展『Precious Situation』で、「交歓」を目指す
青木:それでもそうしたアートプロジェクトに可能性を見いださざるを得ない部分はあります。アーティストでいえば、作品を美術館とかギャラリーで発表するだけじゃない選択肢の幅は、もっと開拓されていいはずです。もっと外に出て、違う制度に自分の表現をひらいていく態度が大切なのではないでしょうか。
今回の美術展『Precious Situation』のテーマは「交歓」です。『NEWTOWN』はフェスであり、アートの展示以外を目当てに来る人もたくさんいます。そういう人たちが出会えるプロジェクトをできないかと考えました。参加作家の今井さつきさんは、お客さんとコミュニケーションすること自体が作品になっています。既存の制度以外の場で作品を発表することにすごく柔軟だし、こういうフェスの中でアートになにができるかを一緒に考えられるアーティストです。
青木:またアーティストグループ「オル太」は、ツアー型のパフォーマンスを行います。今回の『NEWTOWN』では、これまで小学校跡地だけだった会場が、駅前などまで拡大したこともあるので、まさに、今和次郎や考現学を参照点に、そのエリア周辺の街中をツアー形式で回るようなものになる予定です。
青木:リサーチしてみると、多摩ニュータウンっておもしろい。もともと住宅供給率が足りずに計画されたにもかかわらず、途中で足りてしまい、量から質にシフトする。都市計画的な実験がたくさん行われている場所です。たとえば「歩車分離」といって、歩行者と車が出会わないようにレイヤーが分断されていたり、団地の1階部分がガラス張りで道に飛び出ていて、街中にアプローチするための設計が施されていたりと、マニアックな実験がたくさん見られます。「サンリオピューロランド」も、できたきっかけはサンリオが倉庫を作ろうとしたことだといいます。
福住:おもしろそうですね。それで思い出したんですが、僕は最近よく仕事で中国に行くんです。向こうで一番おもしろいと思った文化に「広場ダンス」というものがあります。おじいちゃんやおばあちゃんたちが夕飯後にみんな広場に集まってきて、でかいラジカセを1個ボンと置いて、音楽を流しながら「いっちに、さんし」とみんなでダンスを踊るんです。
そもそもの起源は中国政府が健康増進のための政策としてトップダウンで広めたらしいんですが、いまや民衆に根づいている。この間、その「広場ダンス」のおばちゃんたちと、同じ広場を使っていたバスケ好きの若者たちが、場所の使用をめぐってケンカになったというニュースを見たんです。結果、2メートルくらいある中国の若者を、おばちゃんたちが取り囲んでボコボコにしたそうです(笑)。
広場ダンスは中国人が昔から受け継いでいる文化ではなくて、上から与えられたもの。けれども、それを自分たちの文化として守るという意識があるからケンカになるわけですよね。僕らはニュータウンで育って、いろんな都市計画の上にいろんなアミューズメントが用意されているけど、若者を取り囲んでボコボコにするくらい守りたい文化がないんですよね。
トップダウンという意味では、都市計画も中国政府の政策も似ている。でもアートは都市計画的なものじゃなく、用意された状況を脱コード化していろんな自由を見つけていくようなもの。だとすれば、アートにできることってなんだろうと、ますます分からなくなってくるんです。
―アーティストであれば、その自由と不自由の間で摩擦熱を起こしたいと思うはず。でも、現状の日本の都市や市民って、驚くほど体温が低いですよね。
青木:本当に東京はどう攻略したらいいか、かなり難しいところです。「交歓」というテーマで目指すのは、社会学者の見田宗介が「交響圏」でも示しているような「シンフォニー」がある空間です。喜びをわかち合える人々の小集団がいくつもあって、その間を調停するのが「ルール圏」。そういうトライブ的な集団とか、パブリックな公共圏というものから、意識的に作り直さないといけないんじゃないでしょうか。
アートでいえば、作品を発表することで起こる議論がなんらかの制度の中だから担保されている、という状況ではもうなくなっています。もしそこで摩擦を起こすのであれば、かなり丁寧な仕掛けを用意しなければいけません。その摩擦はやり方を間違えたら、誰かをただただ傷つけるだけになってしまうかもしれないからです。いかに「丁寧な摩擦」を仕込めるか。幸い、こうしたフェスや民間企業のプロジェクト、オルタナティブなものから公的なものまで含めて、いまはあらゆる手段があります。その中で色々と模索して、なにができるかを探っていければと思っています。
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- 青木彬 (あおき あきら)
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インディペンデント・キュレーター。1989年東京生まれ。首都大学東京インダストリアルアートコース卒業。アートプロジェクトやオルタナティヴ・スペースをつくる実践を通し、日常生活でアートの思考や作品がいかに創造的な場を生み出せるかを模索している。社会的擁護下にある子供たちとアーティストを繋ぐ「dear Me」企画・制作。まちを学びの場に見立てる「ファンタジア!ファンタジア!─生き方がかたちになったまち─」ディレクター。KAC Curatorial Research Program vol.01『逡巡のための風景』(2019,京都芸術センター)ゲストキュレーター。
- 福住廉 (ふくずみ れん)
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1975年生まれの美術評論家。著書に『今日の限界芸術』(BankART 1929、2008)、共著に『日本美術全集第19巻拡張する戦後美術』(小学館、2015)、『どうぶつのことば』(羽鳥書店、2016)ほか多数。企画展に『21世紀の限界芸術論』(ギャラリーマキ、2005~2011)、『今日の限界芸術百選』(まつだい「農舞台』ギャラリー、2015)ほか多数。現在、東京藝術大学大学院、女子美術大学、多摩美術大学、横浜市立大学非常勤講師。
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