謎めいた「MASK」シリーズや、木そのものの姿を生かした「そりのあるかたち」シリーズといった抽象彫刻によって、戦後の美術史を造形一筋に歩んできた彫刻家、澄川喜一。近代彫刻の立役者たちを師に持ち、日本の伝統的な建築や工芸にも連なる彼の仕事は、デザイン監修を務めた東京スカイツリーなど、じつは我々の身近にもある。昨年米寿を迎えたそんな澄川の首都圏初の大規模回顧展『澄川喜一 そりとむくり』が、横浜美術館で開催されている。
今回はこの展覧会を、かつて澄川も勤めた東京藝術大学彫刻科で現在教鞭を執る、彫刻家の小谷元彦さんと一緒にまわった。現代の身体感覚を宿した彫刻はもとより、写真やCGなどの技術を旺盛に制作へと取り込んできた小谷さんの眼に、先達である澄川の仕事はどのように映るのだろうか。「かたちの芸術は、過去と関係を結ぶ」と語った、小谷さんの言葉の意味とは? 澄川の歩みを辿りながら、「かたちの芸術」の森へと踏み入ってみよう。
学生時代の作品から見いだされる、現在に至るまでの澄川作品の特徴、起点
澄川が藝大彫刻科にいた最後の年に大学院に在籍し、「澄川先生は、顔を合わせたことはあるけれど数回言葉を交わしたくらい」と語る小谷さんを連れて向かったのは、会場入口にある一角。意外にも、そこで紹介されているのは、ある橋の存在だ。
1931年に島根県で生まれた澄川は、14歳で山口県岩国市の工業学校へ進んだ。この土地で彼の眼と心を惹き付けたのは、1673年に建造され、現在では日本三名橋のひとつに数えられる錦川の橋「錦帯橋」だった。
4基の石の土台に5連の太鼓橋がかかるこの構造体を、青年の澄川はくりかえしスケッチしたという。また1950年、台風による錦帯橋の崩壊を目の当たりにした澄川は、木と石の塊へと還った橋の光景に、不思議な美しさを見出した。
小谷:釘を使わずに作られたこの橋の組み木構造を、おそらく澄川さんは彫刻的に見ていたのでしょうね。のちの作品に見られる木の特性や昔の建築物に対する関心が、この時点で集約されているのは面白い。
また澄川さんは、戦後の「反芸術」や「もの派」といった動向の少し上の世代。彼らは「作る」ということ自体を疑った世代ですが、錦帯橋を展示の始めに据えているのは、「自分は造形を手放さなかった」という宣言のようにも見えますね。
1952年、澄川は藝大彫刻科に入学し、退官間際の平櫛田中、そしてその後を継いで赴任した菊池一雄という、日本の近代彫刻を代表する2人の彫刻家のもと、塑造を学んだ。
小谷:田中は人形や仏像といった伝統的な木彫の世界と、輸入された西洋彫刻の狭間で自身の表現を模索した作家。菊池もロダンをはじめ西洋の影響を受けながら、この国の公共彫刻の礎を作った作家。
彼らが活動した20世紀前半の日本は、西洋彫刻の衝撃のなかで、多くの作家が「従来の仏像とは異なる日本のオリジナルな彫刻とは何か」を試行錯誤した時代でした。僕自身は学生時代に学んだ木彫から早めに一度は離れてしまったタイプだったのですが(笑)、澄川さんの仕事は、この2人に見られる木という素材と公共彫刻の追求という点と明らかに共通項がありますね。
続く部屋には、そんな澄川の学生時代の具象的な作品群が。小ぶりな作品が多いが、そこにはこんなエピソードがある。卒業後、大学に副手として残った澄川は、恩師・菊池の助言もあり、30歳を前に職を離れ、東京都清瀬市に現在も使うアトリエを構えた。過去との決別の意味もあったのか、澄川はここで具象作品の多くを自ら破棄してしまうのだ。
一方、この頃の活動で興味深いのは、澄川が人類学者の依頼で、古代人の骨から当時の人の顔を復元したり、科学警察研究所の研究員として、身元不明の遺骨からその顔を復元したりする仕事をしていることだ。人体の表と裏をめぐるこうした活動を経て、澄川の作品は徐々に抽象化してゆくのだが、小谷さんはすでに学生時代の作品にその傾向があると話す。
小谷:初期の裸体像を見ると、隆起した部分への関心が強い。つまり、のちの抽象作品で探究され、本展のタイトルにもなった「そり(反り)」と「むくり(起り)」の興味がすでにここに発見できます。また、同じ人体像でも、作品ごとにアプローチの仕方が違う点も、作家の若い時代の実験的な性格を示している。
たとえば、『S君』という友人の顔をもとにした作品は、同時期のほかの滑らかな作品群に比べ、際立って構造的です。おそらくここに残されている作品は、澄川さんにとって特別な思いがあったものなのでしょう。
展覧会タイトルにもなっている「そり」と「むくり」の美意識とは
大学を離れ、一人彫刻に向き合った澄川が1960年代から制作を始めたのが、初期の代表的なシリーズである「MASK」である。アフリカの原始彫刻や日本の甲冑、そして故郷島根の神楽面など、ある土地に根差したヴァナキュラーな造形物や、裏側に人の気配を感じさせる美術品への関心から生まれたこの連作は、世界的な彫刻家、イサム・ノグチらからも評価された。
その名の通り、二体一組の阿吽像である1968年制作の『MASK-AH』『MASK-UN』は、当時全国で隆盛した野外彫刻展のひとつ、『神戸須磨離宮公園現代彫刻展』に出品された巨大な作品。その一種異様な佇まいは、展覧会全体のなかでも特別謎めいた存在感を放っている。
小谷:この作品は形状からの解読が難しいですね。『MASK』は藝大にもあるので、昔から見ていたのですが、当時から「このかたちはどうして生まれたのだろう」と思っていた。もちろんアフリカ彫刻や甲冑の影響は分かるのですが、それだけではない不思議さがありますね。
同時に気になるのは、澄川がなぜ抽象に向かったのか、という点だ。小谷さん自身も、1990年代のデビュー以降、非実在的な身体の感覚が蘇る「ファントムリム(幻影肢)」を中心的なテーマとしてきた。一般には、物のかたちの探究であるとされる彫刻家の営みが、あるときそこからこぼれ落ちる「虚」の空間や、不可視の領域に向かうのはなぜなのか?
小谷:彫刻家はマッシブ(量塊的)なものに興味があると思われがちですが、大抵ある時点で反対側に関心が出てくるんです。つまり、「空洞」や「裏側」ですね。近代以降の彫刻家の多くはこの問題を何らかで捉え、作品化していると思います。とくに抽象彫刻家は。
もう一点、『神戸須磨離宮公園現代彫刻展』といえば、先にも言及した「もの派」の代表作、関根伸夫さんの『位相-大地』が出品された展覧会です。空洞とマッス(塊)は対比して出現し、砂というかたちが残らないもので表現されているのに対し、澄川さんはそこに物質的に残る素材で、造形的に向き合おうとしている。対峙する問いとしては両者は似ているんだけど、その解き方が違うというのは面白いと思います。
こうして作家として一定の評価を得た澄川は、1967年、師・田中の退官以降、後継者が不在のままであった彫刻科の木彫の復興を託されるかたちで、藝大の講師となった。次の展示室に並べられているのは、「MASK」シリーズ以降の展開を模索する、澄川にとって試行錯誤の時期に当たる作品群だ。ここで澄川は、木材と石やアクリルなどほかの素材をぶつけるなど、さまざまなアプローチを試している。
小谷:ここで気になるのは、いきなり手の跡が消えることですね。以前の作品にあったノミの痕跡のような情感性が消え、表面がツルツルし出す。一見、作品が冷たくなったようにも感じますが、一方で木という素材が前面に出てきました。
以前は自分のイメージに木という「材料」を従わせていたのが、ここからは素材自体への意識が高まっている。だからこそ、いろんな異素材との組み合わせも試していて、素材の実験をしているようにも見えます。この時期は歴史的に捉えても、さまざまな素材が普及し、爆発的に新素材への関心が出てきた頃だと思います。こうして要素が断片化していく時期は、とくに澄川さんのようにひとつのスタイルを確立していく作家には、どこかであるものだと思います。
そんな実験の季節を抜け、1970年代半ばに澄川が到達したのが、次の展示室に飾られている代表的なシリーズ「そりのあるかたち」だ。1978年、『そりのあるかたち-1』で平櫛田中賞を受賞し、制作に自信をもった澄川は、好景気の煽りも受け、公共彫刻も数多く残していく。
小谷:この「そりのあるかたち」シリーズ、僕には完全に人に見えるんですよね。そう見えませんか? スケールの出し方も、人体の影を感じさせます。乱暴な言い方をすると、彫刻とは人体だ、という言いきりもできるんです。一見、一気にシンプル化されたように見えますが、澄川さんのなかでは初期から関心がつながっていたのではないかと。
さらに小谷さんが指摘するのは、同シリーズに見られる日本建築との共通性だ。
小谷:「そりとむくり」と言うとき、「そり」の美意識は日本刀など工芸的なものを想起すれば多くの人に理解しやすいと思います。このシリーズにもその要素がある。
一方、「むくり」の方はあまり馴染みがないと思いますが、たとえば飛鳥時代の法隆寺では、建築上部の木材や参道などを作る際、この「むくり」の技術が使われたんですね。というのも、木を本当の直線にしてしまうと、内側がへこんで見えてしまう。
そこで当時の大工は、あえてそれを目測で計測し、少し膨らませることで、綺麗な直線に見えるように視覚補正の効果を出していたんです。「そり」に見えてしまう現実の直線を「むくり」にしたということは、「そり」と「むくり」は表裏一体ということです。
会場には、東京湾アクアライン川崎人工島の「風の塔」や、東京駅八重洲口にかかる「グランルーフ」をはじめ、澄川が全国に残してきた公共空間での仕事が紹介される一角もある。地面との設置面は三角形で、上部に行くに従って丸みを帯びる東京スカイツリーも、じつはデザイン監修を務めた澄川の「そり」と「むくり」の美意識が反映された構造物である。
小谷:澄川さんの彫刻は、日本の伝統的な建築に見られる造形感覚とつながっているということです。そう考えると、その活動が1980年代以降、建築的な方向に伸びていったのは不自然なことではないんですよね。個人的な制作と公共的な仕事。その2つの活動の下には、最初に見た錦帯橋のような、日本に古くからある構造物への関心も流れているのだと思います。
「いま、彫刻という芸術は、本当の窮地に立たされていると思っています。」
澄川が40年以上にわたり作り続ける「そりのあるかたち」シリーズには、天に向かって屹立するように伸びるものや、水平方向にゆるやかに展開されたもの、細かな要素がリズミカルに構成されたものなど、いくつかのバリエーションがある。次の展示室にあるのは、先にも触れた『そりのあるかたち-1』を始め、水平に展開された大作群。
こうした大型の作品は、作品を構成する複数のユニットが組み合わさることで、はじめて全体が安定する造りになっているという。つまり、極めて微妙なバランスで成立している作品なのだ。
小谷:このカウンターウェイト(バランスを取るために付けられる重り)を利用した作品の危うさを孕んだ平衡感覚も、建築との親和性を感じさせます。たとえば、澄川さんの若い頃のエピソードとして、1957年に谷中の五重塔の焼失を目撃し、非常にショックを受けたというものがある。
五重塔って、じつは構造的には中心の柱に傘が乗っているだけなんですよね。バランスを取っているだけなんです。だから、ダメな五重塔は、よく見ると建物の端っこが揺れている。良い五重塔は、ストゥーパ(仏塔)が真っ直ぐです。こうした危ういバランスで成立する構造物は、日本では古来から作られていたんですね。
伝統的な造形との連続性を示し続ける澄川の制作は、伝統を覆し、社会批評性に価値を見出す激しい動向も多く生まれた戦後の美術史において、驚くほど静かなものにも思える。いっぽうで小谷さん自身も、2007年に開始した「SP(スカルプチャー・プロジェクト)」シリーズにおいて、日本の近代彫刻や能面、模型など、一般には彫刻に含まれないものも含む過去の造形史の探究を行った。彫刻家にとって、過去とはどんな対象なのか。
小谷:いわゆる戦後の「前衛」の作家は、同時代の社会へのアンチテーゼや伝統の破壊を含んだアプローチをしているけれど、澄川さんは彫刻の「かたち」にこだわってきた。「かたち」の問題というのは、それを突き詰めようとすればするほど、古いものと関係を結ぶものなんです。
澄川さんは、彫刻家のなかでもとりわけそこに自覚的に取り組んでいる。つまり、古いかたちをいかに現代につなげるのか、という問題ですね。「かたちの芸術」を理解するためには、ほかのアート作品とは異なる時間軸で見ることが大切だと思います。
小谷元彦『SP2 'New Born' (Viper A)』(2007年)撮影:木奥惠三
最後にやってきた部屋には、近作も含む「そりのあるかたち」の無数のバリエーションがまるで森の木々のように並んでいた。会場脇に飾られたアトリエの風景写真には、澄川が数十年前から買い集めてきたという木材のストックが大量に写っている。衰えない制作意欲が垣間見える一枚だが、この繰り返しのなかで澄川は何を探究しているのだろうか。
小谷:「探究」というか、澄川さんはその活動で、それぞれの木が持つ性質や形態へと関心を向けてきたわけですよね。そうした素材の性質に委ねる制作にすると、バリエーションが生まれやすいのかなとも思います。というのも、そこでは自分の意思は薄くなり、素材との柔軟なやりとりが制作の中心になるからです。舞台や映画で例えれば、演出を過剰にしなくなると考えてもらえれば、わかりやすいかと思います。
あらためて澄川の作品をまとめて見て、「密度が高い」と感じたと小谷さん。
小谷:これは言語化が難しいのですが、空洞とは逆の密度の高さ、凝縮度があるな、と。彫刻作品には、視覚的には見えませんが、作品を中心にして空間へ広がるエネルギーと、内側へ凝縮していくような力があります。澄川さんの作品は後者の力も強い。おそらくその効果を生み出しているのは、澄川さんの仕事の精緻さなんですね。
以前、澄川さんの仕事場を映像で見たとき、カンナの種類の多さに驚いたんです。能面などでも、表面のコンマ何ミリの処理がものを言う。これは仏像も含め、工芸的要素がある彫刻作品に共通するキワの仕事です。澄川さんの仕事にも、それに通じる精緻さがあって、だからこそこんなにシンプルな「そり」が効果的に見えるのではないかと思います。
昨年、東京・天王洲のギャラリー「ANOMALY」で開催された小谷さんの個展には、2017年に患った心筋梗塞の経験をもとにした新作群が展示された。CGを使った映像作品や、さまざまな電子機器も登場するその彫刻群は、澄川の見せる世界とは対照的にも見える。
今回の回顧展を通して、彫刻家の先達である澄川の活動は、小谷さんの眼にどう映ったのだろう。
小谷:僕は、いま「彫刻」という芸術は、本当の窮地に立たされていると思っています。モダニズムは当然のこととして、日本では1980年代くらいまでは、彫刻家は彫刻というジャンルを自明のものとして、そのジャンルで制作の方法論を問うことができた。
しかし、ポストモダンになってからは彫刻という枠はインターメディアやパフォーマンス、ビデオアートに取り込まれた。たとえば「実在するもの」と「実在しないもの」をめぐる問題にしても、ある種、現在ではAIなどの技術によるヴァーチャル空間では批評的なことができてしまう。現実空間での造形物による表現は難しい局面にあると思います。
美術史の長い歴史のなかでは、さほど年齢の離れていない2人。けれど、立たされている状況の違いは実際の年数よりも大きい、と小谷さんは言う。
小谷:澄川さんの仕事から感じることは、公共物の設置など社会で彫刻が必要とされたことで、彫刻家が彫刻や素材に対して純粋に向き合うことができたのかも知れないということです。
僕には袋小路のように見える現代の状況でも、思わぬルートから新しい作品が生まれる可能性はある。そのとき澄川さんの「かたちの芸術」は、相変わらずヒントに満ちていると思うんです。
異素材をぶつけたときの興奮や、精緻さが生み出す密度の感覚や重量のバランス、はいくら技術が発達し時代が移ったとしても、変わらずに現実空間にはあり続けるものだと思いますから。
- イベント情報
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- 『澄川喜一 そりとむくり』
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2020年2月15日(土)~5月24日(日)
会場:神奈川県 横浜美術館
時間:10:00~18:00(5月の金曜、土曜は20:00まで、入館は閉館の30分前まで)
休館日:木曜
料金:一般1,500円 大学・高校生900円 中学生600円 小学生以下無料
※新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、閉幕となりました。最新の情報については、美術館ウェブサイトをご確認ください。
- プロフィール
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- 小谷元彦 (おだに もとひこ)
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1972年京都府生まれ。東京藝術大学美術学部彫刻科卒業後、同大学大学院美術研究科彫刻専攻修了。「ファントムリム(幻影肢)」をテーマとして、失われた身体と変異する身体を表現する。彫刻や立体作品のほかに、映像、写真、インスタレーション作品なども制作する。2010年には森美術館(東京)で大規模個展『幽体の知覚』を開催。同展はその後、静岡県立美術館、高松市美術館、熊本市現代美術館を巡回した。2011年に『第25回平櫛田中賞』、2012年に『芸術選奨文部科学大臣新人賞』を受賞。2019年3月まで東京藝術大学先端芸術表現科准教授。現在、東京藝術大彫刻科准教授。
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