古着のみならず、オリジナルグッズやCD、カセット・テープなどが所狭しと並ぶコンセプトショップ「BOY」。オーナーの奥冨直人さんは、DJやTV番組のパーソナリティなどを務めつつ、渋谷を中心にライブハウスやクラブに足繁く通い、お気に入りのアーティストには直接交渉しながら店頭に置くアイテムを増やしていった。もともと「ヴィンテージショップ」として始めた「BOY」は、もはや「奥冨ワールド」とも呼べるような、カテゴライズ不要のショップへと進化。その確かな審美眼にはミュージシャンや俳優、モデル、デザイナーといった人たちも厚い信頼を寄せている。
ストリートと音楽とファッションを繋ぐ「BOY」のコンセプトは、様々なカルチャーが交差する「渋谷」そのもの。今年で11年目に突入した「BOY」の店頭に、今なお立ち続ける奥冨さんは、コロナ禍で変わりゆくこの街で、どのような「覚悟」を定めたのだろうか。
YOU MAKE SHIBUYA連載企画「渋谷のこれまでとこれから」
新型コロナウイルスの影響で激動する2020年の視点から、「渋谷のこれまでとこれから」を考え、ドキュメントする連載企画。YOU MAKE SHIBUYA クラウドファンディングとCINRA.NETが、様々な立場や視点をお持ちの方々に取材を行い、改めて渋谷の魅力や価値を語っていただくと共に、コロナ以降の渋谷について考え、その想いを発信していきます。
YOU MAKE SHIBUYA クラウドファンディング
渋谷でお店が続いたのは「たくさんの人が、たくさんの目的で来る街」という、交差する地であることが大きかったと思います。
―奥冨さんがオーナーを務める「BOY」は、どのような思いでスタートしたのでしょうか。
奥冨:僕が少年期から多大な影響と感動を受け続けてきたファッションと音楽が、厄介な「くくり」無くお客さまそれぞれの人生や世の中に広がっていってほしいという気持ちでスタートしました。もともとは、古着屋を数店舗運営する会社が渋谷に新店舗を出す際に、その会社の系列店舗によくたむろしていた僕が立ち上げから参加させてもらったのがきっかけです。
当時はファッション誌のストリートスナップ文化が盛んな頃で、高校生だった僕も色々と載せてもらう機会が増え、なんとなく目立っていた部分もあったと思いますね。お誘いをいただき、店長としてオープンしたのが10代の頃だからもう11年前になります。独立してからは、最初の思いはより加速していきました。
―オープン当初はどんなコンセプトのお店だったのですか?
奥冨:大枠のコンセプト自体は先に述べた想いの通りで大きく変わった訳ではないんですが、紆余曲折あり今現在はある意味ノーコンセプトというか(笑)。楽しければそれで。独立オープン後は、当然まだサブスクの波も訪れていない頃だったので、CDやカセットテープの取り扱いから始めました。今もそうですが、特に独立後の3年間は、面識のないレーベルやアーティストに直談判させてもらうことが基本でした。右も左もわからない状況で見切り発車のなか、本当に沢山の方によくしていただきました。
―お店を周知させていくために、どのような工夫をされたのでしょうか。
奥冨:周辺にはアパレル店も全然なかったし、知ってもらうのは一苦労でしたね。系列店舗にも救われました。ただ、ライヴハウスやクラブが多いエリアだったので、遊びに行っているうちにハコのスタッフが「BOY」にも立ち寄ってくれたり、リハ後本番までの間にミュージシャンが来てくれたりという事も多かったです。
それと、独立後は音楽イベントなど積極的に行ないながら、店頭と外の現場を往復して遊べるようなイメージを思い描いていました。中には内輪っぽくしてお客さんの世界を囲ってしまうお店も多いと思うのですが、そういった顧客化よりも「BOYに関わる事でそれぞれの日常や考えに広がりがあったらな」というシンプルな気持ちでコミュニケーションしていました。
ここまでやってこられた事には沢山の理由が重なっていますが、渋谷で続いたのは「たくさんの人が、たくさんの目的で来る街」という、交差する地であることが大きかったと思います。
世間がイメージする渋谷とは、BOYや自分の存在って少し異なると思うんです。その違和感に、不思議と安心する。
―この10年間でお店の「あり方」みたいなものも変わってきましたか?
奥冨:昨年開催した「10周年パーティー」の頃から思っていることなのですが、「ヴィンテージショップ」という紹介にも違和感があって。いっそ「店」や「場所」、「多目的室」とかでいいのかなあって(笑)。僕自身も、例えば音楽イベントを個人案件でなく、企業案件のプロデュースで携わることもあったり、高校生の頃からDJはずっと続けていたり。最近はテレビのレギュラーや、ラジオのMCなども務めていますし、スタイリングやキャスティング業を振っていただくこともあって。小売店というだけでなく、様々な出会いやきっかけの始まりを意識しています。
―「BOY」の定義も、奥冨さんの活動も広がり続けているのですね。
奥冨:BOYも僕の活動も、言葉では目茶目茶説明しづらい。なので人が紹介してくれるときに、それぞれの解釈が出て面白いです。「たこ焼きが上手」みたいな紹介の時もあったり(笑)。
―11年前、奥冨さんが働き始めた頃の渋谷はどんなイメージの街でしたか?(当時のBOYは松濤~円山町エリアにあった)
奥冨:道玄坂……特に円山町あたりは率直に怖かったですね。昼間から暴れて捕まっている人とか何十人も見てますし。松濤も今ほど道が拓けてなくて、当時は路面だったのでなかなか怖い目にもあっています。今の道玄坂エリアとはかなり違う雰囲気でした。
思えば小一で初めて渋谷へ行ったときは、まだ宮益坂に露店販売とかがあって。その頃のセンター街とか、子供だったのもあるけどめちゃめちゃ怖かったな。
―今はどんな雰囲気だと感じます?
奥冨:まとまりがない状態のまま、奇跡的なバランスで成り立っている街。例えば神南、宇田川町、神山町、道玄坂など数100メートル単位で隣接しているエリアが、それぞれ全く異なる雰囲気を持っている。さらに東や猿楽町みたいな静かなエリアに広がっていくわけじゃないですか。冷静に考えるとなかなかワケ分からないですよね(笑)。
銀行へ行く時は毎回センター街を通るんですけど、歩いてるとふと自分の身が街で浮いているような感覚があって。世間の多くがイメージする渋谷とは、BOYや自分の存在って少し異なると思うんです。その違和感に、不思議と安心する。今はもう極端な「刺激」みたいなものはあまり感じないのですが、コツコツと影響が積み重なって今があると思います。その影響は主に、人からが多いですね。
―渋谷で好きなスポットというと?
奥冨:BOYは最高の居心地で(笑)、近辺ならライブハウスのWWW。コロナ前は、多い時は週5で通っていました。スタッフさんそれぞれの音楽愛を感じるし、単純に気になる公演が多いので。PARCOも仲良しなので、しょっちゅう行きます。SUPER DOMMUNEも出来たし、BOYとしてもまだまだ色々関わっていけるんだろうなと勝手に思っていますね。
人の優しい言葉に救われ、ようやくネガティヴな感情から今は抜けきったところです。もう充分に時代は狂っているので、僕自身は正常に、周りと時代に向き合っていく。
―新型コロナウイルスの感染拡大は、お店と奥冨さんにどのような影響を及ぼしたのでしょうか。
奥冨:まず2月の半ば頃に、DJ出演予定だったイベントからキャンセルの連絡がありました。そこからズルズルと20本以上はキャンセルになりましたね。ただ正直、3月後半までは「5月には落ち着くかな」とか呑気に考えていたんです。それが3月最終週の土日に外出自粛要請が出て、それ以降はBOY店頭の様子も随分と変わってきて、「これはまずいな」と。緊急事態宣言以降はしばらく営業出来なかったので、独立して初めて家でゆっくりする時間ができて、最初のうちはすごくソワソワしていました。
―お店のオープン以降、ずっと走り続けている状態だったのですね。
奥冨:BOY店頭には必要最低限立って、年に300本くらいライヴへ行き、DJも80本位はあった生活が20代の当たり前だった。休みという休みがなかったので、そういう点でも今後の生き方を見つめ直すきっかけになりましたね。仕事とプライベートの垣根がほぼなかったのは、いずれも人とのコミュニケーションで生まれる何かを楽しんでいた気持ちの面が大きかったので、人に会わないというのも随分と妙な感覚で。
そして、店舗には「家賃」という最大の出費がありまして。普通に営業するだけでも大変ですが、営業出来ないってなったら場所を維持する事もできなくなるんです。それで、まずはオンラインショップの古物商申請をして許可範囲を広げるなど計画を進めていきました。まだ給付金の話が不明確だったころですね。
BOYまで行ってオンライン作業して、夕方店舗の外に出ても目に映る人は1、2人で。悩んだ選択でしたが、家に居ても出来る事が少なかったので、ほぼ毎日店まで行って作業や計画をして、その計画も来月や再来月の状況が以前より全く見えない状況のなか、斜線を入れ続ける日々でした。
―オンライン販売の反応はいかがでしたか?
奥冨:想像以上の反応の良さで、「なんで今までやってこなかったんだ」と(笑)。全国各地から毎週注文があって嬉しい限りです。大反省するとともに、始めて良かったことしかないなという思いしかないですね。
―奥冨さんご自身の活動としては、やはり配信が増えていきましたか?
奥冨:5月からは配信のDJも増え、最近はお客さんを数名入れた場所でのDJもやりました。僕自身はフィジカル強めでカメラアピールも得意なので、配信DJは向いていましたね(笑)。ハコは特にまだまだ厳しい状況だと思いますが、出来る限り密に連絡を取って状況や意見を話すなど、コミュニケーションだけは絶やさずいたいです。
もちろん、様々な職種や活動の方々とも更にフラットに繋がっていきたい。そういう時代なんじゃないかなと思うんです。今回の事はウイルスの存在が発端だけど、毎日報道が転がり続けている中で、それぞれの考え方が日によって変わり、それによってすれ違ったり落ち込んでしまったりする人がいて。その「連鎖」や「心の揺らぎ」が辛かったことかなと思います。それは、7月に入った最近まで自分の中にも多少ありました。もともとお酒好きだった分、飲み過ぎて悪酔いするようになってましたし。
―分かります。正常な状態でいられる人の方が少ない状況でしたよね。
奥冨:人の優しい言葉に救われ、ようやくネガティヴな感情から今は抜けきったところです。もちろん、コロナのある日々はまだ始まったばかりだとは思いますが。社会の状況も、最初のうちは「戻る」という認識だったのですが、途中からは「変わる」だなと。もう、以前の日常と100パーセント同じことはないんですよ。
とはいえ、よく考えればどんな時代でも変化しながら今に至る。コロナの影響を感じ始めた当初は反発から物事を生み出したい気持ちもありましたが、日々が進むにつれ「受け入れる」ことで生まれる発想もあると思い、環境とともに感情も変化していきました。今は強い気持ちが生まれています。今回感じて学んだ事はとっても大きいです。強い気持ちなら、周りにも遠くにももっと優しくなっていけるはず。もう充分に時代は狂っているので、僕自身は正常に、周りと時代に向き合っていく気持ちです。
沢山の人の沢山の感情を受け入れ続ける街であってほしいです。それでいて安心も安全も保障されないこの感じ、マジで闘っていくしかないですね。
―ご自身の日常生活の中で、変わったことはありますか?
奥冨:動画チャンネルを見るようになって、現代の作品の面白さにしっかり触れたり。過去の名作も改めて見たりと。あと、緊急事態宣言以降はとある方と文通を始めて。中学生の頃には携帯を持っていた世代なので、メール慣れしすぎていたけどもともと字を書くのも絵を描くのもすごく好きな少年だったんです。ひとつひとつ想いを寄せながら書く、返事がポストに届くという感覚は、緊迫した社会の空気の中でとても優しい気持ちになれました。
―僕もコロナ禍で文通を始めましたから、おっしゃることは本当によく分かります。
奥冨:テクノロジックな仕組みで昔のアナログ的作品に触れたり、アナログな行為の文通で今のテクノロジーに触れたり。面白い体験です。
―先ほどもお話ししてくださったように、奥冨さんは現在スペースシャワーTVの番組『スペトミ!』を担当されています。そこで発信することの意義は、コロナ禍でどう変わっていきましたか?
奥冨:『スぺトミ!』は、スペースシャワーTVさんからお話を頂いた時はまだコロナ以前の時期だったので、個人的には「お散歩番組」というか、色んな街や職業の方の魅力をお伝えできたらいいなと思っていました。単純にもう、一つの職業で文化間が成り立つ話ではなくなってきているし、冒頭で話したようにBOYは多目的や多文化を肯定していきたい気持ちが強いんです。
奥冨:「こういう人はこういう音楽を聴いて、それを聴いている人はこれも好きで」みたいな決めつけや、それによって安心することがずっとしっくりこなくて。「別に、違って良くない?」と思うんですよ。僕らはもっと複雑な感覚や感情で生きているはずだし、一寸先の物事の重なりで、今までなかった感情が生まれたり崩れたりする。色んな仕事や活動、生活があってなんとか成り立っている今を、みんなで楽しんでいきましょう、と。
―現在はリモートで番組を進行しているのですよね?
奥冨:はい。これからいよいよ街に出られるかどうか? という状況ですね。先ほど述べた色んな街や職業、そして人の魅力というのは、丁寧に砕いていかないと伝わりづらい。しかも、コロナ以前とは違うベクトルで届けられるような方法を考えています。そのあたりは「秘策」なので、ここではシーッで!
―分かりました(笑)。今回お話を聞いて、奥冨さんの「覚悟」に勇気をもらいました。今、コロナ禍で困っている人たち、苦しんでいる人たちにアドバイスはありますか?
奥冨:それぞれの環境によって随分感情が違うと思うので、1つ適切な言葉を述べるのは難しいですが、ちゃんと対策をした上で、気持ちが穏やかな時は外に触れられるのが良いかと思います。無責任に言っているわけではなくて、各々のケアと意識でこの空気は変えられると思うんです。体育の授業の前って準備運動していたじゃないですか。そういうストレッチ気分で対策すると気が楽かと。もうマスク生活にもだいぶ慣れましたしね。不思議ですよ。この4ヶ月間にしていることは、今までもずっとしてきたかのようにしてる気がします。
―今回の出来事で、渋谷の文化にはどのような変化があると思われますか?
奥冨:少なくともこの数年に関しては、明確な文化はあるようでなかったとも思っているので、「好き勝手かつ同時多発的に生まれるのが渋谷なんじゃねえかな」って思っております(笑)。色んな感覚の人が表現したい街なら、そうなって普通なんじゃないかなと。ずっとグルグルしている街だし、やっていく人はやっていくんじゃないでしょうか。あと、東京に関しては耐震の事も含めて数年で空きビルや取り壊しも増えると思うので、『ストリートファイター』的に様々なロケーションで闘い合えるような気もしています。
―はははは! では、最後に守りたい渋谷の魅力や、その理由を教えてください。
奥冨:本当に沢山の時代の混沌を受け入れてきた街だと思うんです。とっ散らかってるけど、それが一番の魅力じゃないでしょうか。この数年はオリンピックに向けた都市開発で、本当に色々な建設やシステムが変わってしまったけど、こんなサバイバルみたいな状況で店や活動を進めていくのも、なんだかんだ自分自身は楽しんでいるんだろうなって。
沢山の人の沢山の感情を受け入れ続ける街であってほしいです。それでいて安心も安全も保障されないこの感じ、マジで闘っていくしかないですね。あと「街は人ありき」とも思うので、それぞれの魅力こそ大事に守ってあげてくださいと思います。ありがとうございました。
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23万人の渋谷区民と日々訪れる300万人もの人たちが支えてきた渋谷の経済は“自粛”で大きなダメージを受けました。ウィズコロナ時代にも渋谷のカルチャーをつなぎとめるため、エンタメ・ファッション・飲食・理美容業界を支援するプロジェクトです。
- プロフィール
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- 奥冨直人 (おくとみ なおと)
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渋谷宇田川町にあるファッションと音楽のコンセプトショップ“BOY”ショップオーナー。DJとして年間100本程のイベントに出演。スペースシャワーTVにて配信番組“スペトミ!”のVJを担当。他、やりたいようにやりながら日々活動中。
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