「AIR JAM世代」という言葉が生まれるほどのムーブメントを巻き起こし、絶頂期の2000年に突如活動を休止したパンクバンド・Hi-STANDARD。10年以上に及ぶ沈黙が続き、もはや可能性はないと思われていた彼らの活動再開が実現したきっかけは、東日本大震災だった。
メンバー3人が同時にツイートした「9.18 ハイスタンダード AIR JAM。届け!!!」は瞬く間に拡散され、『AIR JAM 2011』のチケットを手に入れようと、35万件の応募が殺到。翌年には東北での『AIR JAM 2012』開催を実現させ、困難な状況を乗り越えるために、人々が繋がることで生まれるポジティブなムードがいかに重要であるかを提示してみせた。
震災から10年という節目を迎え、あの当時の記憶を未来に繋ぐために、Hi-STANDARDの難波章浩を迎えて対談を実施。そのお相手は、『AIR JAM 2012』にボランティアのコーディネーターとして参加し、その後は難波とともに『東北JAM』の開催に携わってきたNPO法人ボランティアインフォ代表の北村孝之。
前編では震災当日の記憶からHi-STANDARD復活までの経緯、そして、東北で行われた『AIR JAM 2012』において、いかにボランティアの存在が重要であったかを振り返ってもらった。
「ハイスタはどうなるんだろう? 自分はどうなっちゃうんだろう?」って、悩んでた時期ではありました。(難波)
―まずは震災の前、2010年頃の状況についてお伺いしたいと思います。難波さんはどういった状況でしたか?
難波:2010年はハイスタの活動休止からちょうど10年目の節目の年だったんですよね。活動休止後に移住した沖縄で8年過ごした後、今度は僕が育った新潟に移住して、ひさしぶりに音楽シーンに戻ってきた頃だったんですけど……完全に浦島太郎状態で(笑)。なので、当時は自分の居場所を探しているような状態でしたね。
―『SOUNDS LIKE SHIT』(2018年に公開されたハイスタのドキュメンタリー映画)では、この頃からすでに難波さんがハイスタの復活を模索していたことが描かれていました。
難波:やっぱり、僕の中でハイスタはあくまで「活動休止」で、再開が前提だと思っていたんです。もともと2~3年で活動再開できると思っていたんですけど、実際には再開しないまま時間が過ぎてしまって、「もしかしたら、このまま消滅してしまうのかも」とも感じていて。
―すでに活動休止からは10年近い年月が経っていて、当然メンバーとの距離感も以前とは変わっていた。一時期、難波さんと(横山)健さんの関係に深い溝ができていたことは、ファンの間ではよく知られてもいますしね。
難波:それでも、僕はまだ待ってくれているかもしれないハイスタのファンのために節目を作りたくて、それはもしかしたら解散ライブになるのかもしれないけど、もう一回みんなの前に立ちたいと思ったんです。なので、独断で2011年の横浜スタジアムの日程を押さえた上で健くんと連絡を取り、一回ゆっくり話をしました。でも、そのときは断られてしまったんですよね。
だからなんかこう……もがいていたというか、「ハイスタはどうなるんだろう? 自分はどうなっちゃうんだろう?」って、悩んでた時期ではありました。
バンドマンたちがすぐに被災地支援に立ち上がって、その動きにすごく勇気づけられた。(難波)
―そんな中で、2011年3月11日に東日本大震災が起こりました。当日の記憶を教えてください。
難波:鮮明に覚えてます。僕の次男の誕生日が3月11日なんですよ。そのパーティーの準備をしてたときに、新潟もものすごく揺れて、テレビをつけたら信じられない光景が映っていて。しかも、それが東北、宮城だと。妻が宮城の出身なので、急いで妻の父親に電話をしたけど繋がらないんですよ。連絡が取れないことなんてない時代だったので、本当に恐ろしかった。青ざめた妻の表情を見ながら、とにかく連絡を取ろうとショートメールを出しまくったら、その中の1件だけ届いて。
あとからわかったんですけど、そのときお父さんは仕事で石巻にいて、運転中だったそうで。揺れたのはわかったけど、細かい状況はわからない中で、「津波がそっちに行ってる」というショートメールが届いて、バックミラーを見たら、黒い影がグーって近づいてたらしくて。「もしそのショートメールが届いてなかったら、そのままその場所にいたかもしれない」と言っていたので、あのショートメールが父を救ったんだなと思いました。
それからなんとか物資を届けようと宮城に車で向かったんですけど、通行止めになっていてたどり着くことが出来なくて。
―大震災が起きて、被災地に対して何か出来ないかという思いはありつつも、情報もないし、動き方が難しい時期でしたね。
難波:そうですね、僕も最初は何をしたらいいのかわからなかったです。でも、BRAHMANのTOSHI-LOWが立ち上げた幡ヶ谷再生大学とか、SLANGのKOちゃんが「NBC作戦」を始めたりとか、バンドマンたちがすぐに被災地支援に立ち上がって、その動きにすごく勇気づけられたし、自分には何ができるのかを模索して、救援物資を送ったりして。ただ、さっきお話しした横浜スタジアムの話は完全に暗礁に乗り上げちゃったわけです。そんなことやれるわけないし、やっちゃいけないと思ったし。
でも、震災から……2週間くらいかな? TOSHI-LOWから電話があって、「ハイスタをやってくれ」と言われたんです。
とんでもなくダサいことになるかもしれないけど、それでもいい。「とにかく東北に届けよう」っていう、本当にそれだけでしたね。(難波)
―最初のきっかけはTOSHI-LOWさんだったんですね。
難波:最初は「できるわけないよ。健くんにも断られたし」って言ったんですけど、TOSHI-LOWが健くんにも掛け合ってくれて、それでもう一回、僕が健くんに連絡をして、2人で会ったんです。震災が起きて、東北に暮らしてる方々に勇気や力を届けたかったし、何ができるかはわからないけど、何でもいいからできることはないかって。そしたら健くんもすぐに、「ハイスタやろうよ」と言ってくれたんですよね。
―東北のために。
難波:そう、健くんが言ったのは「『AIR JAM』を東北でやりたい」っていうことで。でも、もちろんすぐに被災地でイベントはできないから、まずは横浜スタジアムで一回やってみて、「次は必ず東北に行くからね」って、約束をしたかったんですよね。東北に繋ごう、想いを持って行こう、そこが一致して、握手をしたんです。そのミーティング後に撮った写真をツイートしたのが、あの「GO JAPAN!!!」でした。
―難波さんと健さんの2ショットを見ただけで、励まされた人は多かったと思います。その後メンバー3人のTwitterで告知された『AIR JAM 2011』は、35万件の応募がきたんですよね。
難波:休止してから11年も経ってたから、本当に人が集まるのか不安もあったんです。自分が横浜スタジアムを押さえていたのは不思議ですけど、あれがなかったらすぐにはできなかったし、開催まで半年もない中で迅速に動いて形にしてくれたスタッフの方たちには感謝しかないです。あの短期間でよくやったなって、今でも思いますね。
―『AIR JAM 2011』でのハイスタのライブ自体に関しては、どんな記憶がありますか?
難波:僕はソロ活動こそ始めていたものの、バンドに関してはものすごくブランクがあったんですよ。ベースも弾けない、歌も歌えない、そういう状況だったので、みんなを納得させられるようなライブは到底できないと思ってたんです。なので、自分はあのライブで完全に吹っ飛ぶと思ってました。でも、それでもいいやと。とんでもなくダサいことになるかもしれないけど、それでもいい。人生最大の大一番というか、未だにあれが人生で一番でかいライブですね。
北村:3人でどれくらい練習したんですか?
難波:これも映画で本人が話しているから言えるけど、恒ちゃん(恒岡章)の心の状態がよくなかったんですよね。なので、リハで集まっても、音が出せない日が結構続いて、本当に当日まで恒ちゃんがドラムを叩けるかわからなくて……実はそこが一番気を使ったかなぁ。
―難波さん自身も、どうなるかわからない状態の中にもかかわらず、あの『AIR JAM 2011』をやり遂げたわけですね。
難波:使命感もあったけど、かっこつけてはいられなかったし、メンバーとも「今の自分たちを見せればそれでいい。とにかく東北に届けよう」っていう、本当にそれだけでしたね。
カンボジアに移住することになって、その準備をしている最中に震災が起きたんです。(北村)
―北村さんは東北で行われた『AIR JAM 2012』で難波さんと関わることになるわけですが、2010年はどんなお仕事をされていたのでしょうか?
北村:僕は新卒で東京に出てきて、IT関係の仕事を何年かやってたんですけど、起業をしたいという夢があったので、環境をガラッと変えたくなっていた時期で。それで勉強会に行ったりしながらいろんな人と繋がっていく中で、「カンボジアで学校を作りたい」という人と意気投合して、次の日に「会社辞めます」って言って。
難波:えー!(笑)
北村:今思うと、何か向かうところが欲しかったんでしょうね。それで2011年の4月からカンボジアに移住することになって、その準備をしている最中に震災が起きたんです。
そのときにテレビを見て思い出したのが、阪神大震災の映像。僕の実家は滋賀なので、神戸からは少し距離がありますけど、同じ関西で「助けてもらった」という想いがあって、恩返しではないですけど、すぐにIT関係の知り合いに連絡を取って、自分にできることを探し始めました。
―具体的には、どういった活動を始められたのですか?
北村:当時はまだ情報が整理されていなくて、「ボランティアに行きたいけど、行けない」という人がたくさんいたんです。なので、Yahoo!ボランティアさんなどと連携しながらボランティアの募集情報をデータベース化して。それと同時に、情報を持たずにひとまず仙台に集まってくる方に向けて、インターネットで出していた情報を、現地で伝える活動を始めました。確か3月末くらいに仙台に入って、現地の団体と連携を取りながらスタートして、活動を続けていくためにNPO法人になっていったんです。
難波:思い出してきた。確かに当時も、ボランティアの受け入れをどうするかとか、報道されていましたよね。
―北村さんご自身も、現場でボランティアをされていたんですか?
北村:例えば僕が行った現場だと、石巻の鮭の工場で、電源が止まった冷蔵庫に腐ってしまった鮭が大量に残っていて、とんでもない匂いを出していて。個人では到底処理できないので、ボランティアが集まってみんなで運び出しましたね。
被災地に行ってみて、本当にまだまだ人が必要だと思いましたし、とにかく僕はITの知見を活かして、人がくる道のりを作るべきだと思って、現地にボランティアを集めるための支援をしていくようになりました。
僕らとしてもボランティアの方たちが一緒に活動してくれることが心の支えになってた。(難波)
―そしてお二人は、宮城で開催された『AIR JAM 2012』で初めて出会うわけですね。
北村:僕がハイスタ好きだと知ってる知り合いから、『AIR JAM 2012』でボランティアのコーディネートをしてほしいという話が、開催の2か月前にきて(笑)。しかも僕、情報を届けるのが仕事で、自分が現場でコーディネートをするっていうのはやったことがなかったんです。なので、いきなり「やる? やらない?」って言われてかなり困ったんですけど、ハイスタだからやりたいじゃないですか? 「ライブが観れるかもしれない」っていう、淡い気持ちもあったし。
―あはは。
北村:あと、震災から1年以上経って、ボランティアが減ってきていたんですよね。ちょうど「このままただ情報を出すだけでいいのか?」って考えていて、いきなり災害ボランティアに行くんじゃなくて、フェスやスポーツのボランティアをして、「ボランティアっていいな」と思ってもらって、それから災害ボランティアにも参加してもらえるような、そういう道筋を作れればいいなと思っていて。そうしたら、まさにその機会が来たので、2か月しかないけど(笑)、やってみようと。いろんな人に支えられながら情報を出したら、本当にたくさんの人が集まってくれました。
難波:ね、たくさん集まってくれたよね。
北村:チケットを取りたいけど取れなかった人もたくさんいて。そういう人たちがボランティアに来て、でもちゃんとボランティアの趣旨を説明すると、「ライブ見なくていいから俺はゴミのことやります」って動いてくれる人がたくさんいて。これがボランティアの力なんだなって、心から思いましたね。
難波:僕らとしても、「次は東北に届ける!」って、『AIR JAM 2011』をやったわけですけど、2012年の東北はまだまだ混乱しているわけで、そこにわざわざ行って、地元の方に迷惑をかけちゃいけないっていう、それが大前提だったんですよね。そういう面でも、地元のボランティアのみなさんにはすごく助けてもらいました。
そもそも都心以外で『AIR JAM』をやるのも初めてのことで、宿とか移動手段とかゴミとか、整理が必要なことも多くて本当にバタバタで。地元の方にもたくさんわがままを聞いてもらって、すごく負担も掛けたんですけど、僕らとしてもボランティアの方たちが一緒に活動してくれることが心の支えになってたんですよね。自分たちだけでは到底できないことでした。
北村:僕らも初めてのことだらけでしたけど、『フジロック』を中心にフェスのボランティア文化が成熟していて、オペレーションを知ってる人が結構いるんですよね。そういう人に教えてもらったりもしながら、良い部分を取り入れていって、2デイズの2日目はかなり良くなっていました。
フェスのボランティアって、最後にお客さんが帰る時が一番大変なんです。1日仕事をしてヘトヘトの中、たくさんの人が帰っていくのでゴミも一番出るので。そしたら、最後のハイスタのライブが終わってお客さんが帰り始める時に、難波さんがステージからマイクで「ボランティアのみんなもありがとう!」と言ってくださって。あれは本当に嬉しくて、「この声を聞いたら頑張れる!」って、みんな一気にテンションが上がって。
北村:あそこまでボランティアと一緒に運営まで動いてくれて、声をかけてくれて、大切にしてくれるアーティストさんって、そんなに多くないと思うし、初めてのボランティアの人も多かったですけど、「やって良かった!」ってみんな思ったと思うんですよね。その後に被災地のボランティアに行った人もいて、次に繋がるきっかけになるフェスでした。
難波:みんなの気持ちも感じて、こっちもすごくうれしかったんですよね。ほんと、みんなで作った『AIR JAM』でしたね。
せっかくハイスタの3人が集まるんだから、シリアスなものじゃなくて、明るいものを届けたかった。(難波)
―「これで吹っ飛んでもいい」と思って臨んだ2011年に対して、2012年のライブはいかがでしたか?
難波:2011年は何にもわからず、頭真っ白でしたけど、2012年はすごく楽しかったんですよね。
「東北に届ける!」って始まって、「じゃあ、何を届けるのか?」って、せっかくハイスタの3人が集まるんだから、シリアスなものじゃなくて、明るいものを届けたかったんです。僕らが楽しんでる姿を見せることで、みんなを楽しませることもできるんじゃないかなって。
―みんなを楽しませることによって、笑顔を届けることができた。
難波:あと、沖縄から戻ってきてみたら、「ロック」と言われる人たちの中にも壁ができている気がして。でもせっかく僕らがやるからには、それも取っ払いたくて。なので、全然絡みのないバンドもブッキングして、あそこでいろんな垣根が取っ払われた気がします。「繋がる」っていうキーワードもあったから、音楽好きな奴らはもっと繋がろうよって。
―ミュージシャン、オーディエンス、ボランティア、まさにみんなが繋がって、みんなで作り上げたフェスだったわけですね。
難波:繋がっているってことを届けたかったから、『AIR JAM 2011』では“MOSH UNDER THE RAINBOW”をあえてやらなかったんですよ。『AIR JAM 2011』の流れをそのまま東北に繋げたくて。あの曲の輪になって繋がる感じっていうのは、『AIR JAM 2012』を象徴していたと思います。
後編では、難波と北村がより密接に、東北の人々と作り上げてきた『東北ジャム』を振り返る。そして、震災時には有効だった「繋がる」という方法ができなくなった現在のコロナ禍に対して、私たちはどのように向き合うべきなのか? 音楽にできること、ボランティアにできること。この10年の持つ意味を改めて考える。
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本記事は、東日本大震災から10年の節目を契機に、ボランティアがより一般的になる未来を願い、Yahoo!ボランティアとCINRA.NETの共同企画として制作しました。特設サイトでは、東日本大震災のボランティアについての思い出など、様々な声が集まっていますので、ぜひご覧いただければ幸いです。
Twitter上では #東北ボランティア とハッシュタグをつけ当時のボランティア活動の思い出を投稿し、共有する企画を実施しています。10年を経て振り返る機会としても、よろしければご参加ください。
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- プロフィール
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- 難波章浩 (なんば あきひろ)
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日本のパンクロックシーンの最重要バンドであり、世界でも絶大な人気を誇るHi-STANDARDのベース&ボーカル。2013年にはNAMBA69を結成し、現在は4ピース編成のハイブリッドメロディックハードコアバンドとして活動中。
- 北村孝之 (きたむら たかゆき)
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NPO法人ボランティアインフォ代表ボランティアコーディネート。新卒でソフトバンクに入社し、ITベンチャーのマイネットを経て、発展途上国の教育支援を行うNPO法人HEROの立ち上げメンバーとして活動。東日本大震災発生後、助けあいジャパンにボランティアとして参加し、仙台へ移住。2011年5月に仙台でNPO法人ボランティアインフォを立ち上げ、現代表理事。
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