1997年、シングル『犬と猫/ここにいる』とアルバム『金字塔』でシーンに颯爽と登場したシンガーソングライター、中村一義さん。「状況が裂いた部屋」と名付けたプライベートスタジオにて、たった一人で作り上げたそのサウンドスケープは、今なお「宅録ミュージックの先駆け」として多くのミュージシャンに多大なる影響を与え続けています。
その後も彼は、バンド「100s」名義で活動したり、ベートーヴェンと対峙した問題作『対音楽』をリリースしたり、最近は新バンド「海賊」を率いての活動を始めたりと、「過去のキャリア」にとらわれることなく自分の信じる道を突き進んできました。彼の強さは、一体どこから生まれたのでしょうか。100s時代からの朋友・町田昌弘さんがギターで参加した配信シングル『世界は変わる』をリリースする彼のプライベートスタジオ「100st.」を訪ねました。
画家を志すも、挫折。中村一義が音楽に目覚めた強烈な出会い
音楽を始める前は、絵を見たり描いたりするのが好きだったという中村さん。ピカソやゴッホ、シャガールに憧れ、中学に入学する頃には「絵描き」を志望。いきなりキャンバスを購入すると、独学で油絵に挑戦しました。しかし、いくら描いてみても「模倣」の域をどうしても脱することができず、オリジナリティーの壁にぶちあたります。
中村:「こんなんじゃ絵描きにはなれない。そもそも俺に、絵の才能なんてないのかな」と落ち込みましたね。僕はいつも絵を描くときにはラジオを聞いていたんですけど、ある日The La'sの“There She Goes”が流れてきて、「一体、今まで何をやってきたんだ?」って身体中に衝撃が走って。3分もない曲なんですけど、心を鷲掴みにされて人生が変わりました。それで、「これからは音楽をやります」と自分に宣言し(笑)、それまで描いてきた絵を全て焼きました。
「オリジナル」にこだわり続けてきた表現者としての原点
中村さんはこの日を境に音楽へ一気にのめり込み、主に洋楽を聴き漁るようになりました。ちょうど1980年代が終わり、イギリスではインディーロックが台頭し始める頃。アラン・マッギー主宰のレーベル「Creation Records」のカタログなどを、夢中で掘っていたそうです。特に、Primal Screamの『Screamadelica』(1991年)から多大な影響を受けたという中村さん。同時に日本のロックにも興味を持つようになり、特にTHE BLUE HEARTSの歌詞はストレートに胸を打ちました。
中村:絵にしても音楽にしても、ただインプットするだけでなく、自分自身の「表現」としてアウトプットしたいという気持ちが常にあって。自分という「フィルター」を通して表現したときに、どんなものが生まれるのか知りたいという欲求が、小さい頃から強かったんですよね。だからその形は別に音楽でも絵でも、何でもよかったのかもしれません。ただ、海外の色んな音源を聴いていくうちに、「これを日本にも紹介していきたい!」という思いも強くなっていきました。僕は佐野元春さんが大好きなんですけど、彼も海外の音楽を積極的に取り入れて紹介していますよね。そういう部分にすごく共感するんです。
絵画と同様、音楽活動もいきなりオリジナル曲を作ることから始めた中村さん。高校入学と同時にオールインワンシンセとサンプラーを手に入れ、当初は打ち込みでテクノを作っていたそうです。電気グルーヴのトータルアートとしての存在に影響を受けていた中村さんは、「映像担当」の友人とライブをしたり、音源を制作したりしていました。
中村:それも結局、鳴かず飛ばずの状態で。レコード会社に音源を送ってみましたが、全く反応がありませんでした。そうこうしているうちに高校卒業の時期が近づいて、友人たちはみんな就職口が決まっていくわけですよ。教室の後ろにある黒板に、全員の進路が書き出されていくなか、最後の最後まで空白だったのは僕だけ(笑)。そのまま高校を卒業しました。
オリジナリティーを模索するなかで再会を果たしたThe Beatlesの存在
小学生のときに両親が離婚したあと、祖父母の家で暮らしていた中村さん。大学には入らず、進学用の支度金として祖父母が準備してくれたお金を使い、自室をプライベートスタジオ「状況が裂いた部屋」に改装、The Beatlesのメンバーが使っていたものと同じ楽器を持ち込み、独学で演奏をマスターしながらひたすら音源を制作するようになりました。
中村:The Beatlesとは「再会」したような感じだったんです。それまではテクノとか、当時のUKロックとかを聴いていたんですけど、どうあがいても“There She Goes”みたいな曲が書けないのは、ルーツと向き合っていないからじゃないかと思うようになって。僕が祖父母からあてがわれた部屋というのは以前、音楽好きの叔父が住んでいたこともあり、ドラムやギターが転がっていたんですよ。そんな空間でThe Beatlesを聴いていると、自分のルーツに出会えたような気持ちになれたんですよね。祖父や叔父、親父と、The Beatlesを通じてつながっているような感覚というか。それからは、生楽器主体のサウンドを目指すことに決めました。なぜだかわからないけど、楽器は自然と弾けるようになったんです。改めてその理由を考えると、「今、この場所にThe Beatlesを召喚させてやる!」と本気で考えていたからかもしれませんね(笑)。
たった一人で傑作『金字塔』を作り上げ、外の世界に飛び出した中村一義が出会った100sという仲間
1997年にシングル『犬と猫/ここにいる』でデビューし、同年には1stアルバム『金字塔』を発表。まだベッドルームレコーディング(自宅録音)が主流ではなかった頃、「状況が裂いた部屋」にてたった一人作り上げたデモをもとに、セルフプロデュースにて完成させたこのアルバムは当時、多くの音楽メディア、評論家から絶賛を受けました。
中村:オリジナル曲を作り始めてすぐは、もちろん曲も歌詞のクオリティーもよくなかったんですけど、1年8か月くらい経ったときに、<どう?>っていうフレーズが降りてきて。「あ、これは作れるぞ」と思って一気に作ったのが、“犬と猫”でした。『金字塔』は、今思うと、たった一人で作り上げたイカダみたいなものですね。「状況が裂いた部屋」から外の世界へ飛び出し、仲間と巡り合うための作品だった。
デビューから数年は一切ライブ活動をしていなかった中村さんですが、3rdアルバム『ERA』をリリースした2000年、デビュー以来初となるライブ出演を果たします。翌年の『ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2001』には、現在ではレキシの首謀者として知られる元SUPER BUTTER DOGの池田貴史さん(Key)、町田昌弘さん(Gt)、小野眞一さん(Gt)、玉田豊夢さん(Dr)、山口寛雄さん(Ba)とバンドを組んで出演し、同じメンバーで4枚目のアルバム『100s』(2002年)をリリース。以降、名義を「100s」に変更し、ソロ活動から本格的なバンド活動へとシフトしました。
中村:デビュー当時からバンドは組みたかったんです。なかなかライブをやらなかったのも、心を通わせられるようなバンドメンバーと出会えなかったからなんですよね。100sのメンバーとは、2、3度セッションしただけでものすごくしっくりきました。年齢も近いから「こんな感じ」っていう感覚もすぐ通じて、友達みたいに仲良くなれたし、もちろんライバルとしての緊張感もあって。『トキワ荘』みたいな空気が出来上がっていきましたね。
音楽家人生の頂点に挑んだ『対音楽』を経て、見取り図のない海へと繰り出した中村一義と新たな仲間たち
そして2012年、10年ぶりにソロ活動を再開。ベートーヴェンと対峙したコンセプトアルバム『対音楽』が完成します。ベートーヴェンの交響曲第一番から第九番まで、およびピアノソナタ第八番のフレーズが全ての収録曲に組み込まれた本作は、今聴いても異様なほどのテンションがみなぎっており、ベートーヴェンに対する中村さんの並々ならぬ思いが詰めこまれていました。
中村:「ついに、このときが来たか」という感じでしたね。音楽家としての自分のキャリアは、最後はベートーヴェンと対峙して終わるだろうなと思っていたので。ベートーヴェンは、自分にとって音楽の礎のようなもの。The Beatlesというルーツと向き合うことで、『金字塔』以降の自分の活動が決まったとしたら、The Beatlesよりもさらに遡ったところにあったのが、ずっと祖父が聴いていたベートーヴェンだったんです。特にアカデミックな教育を受けたこともないのですが、読書家の祖父から分厚い楽典を読まされたりはしていたんですよね。最初は「何のこっちゃ?」と思いつつも(笑)、読んでいるうちに(理論などが)身についていったのかもしれないです。
中村一義の制作デスクに置かれた小物。『対音楽』のジャケットで使用されたマスクや「百式」のプラモデルなどが置いてある
それから4年後の2016年。Hermann H.&The Pacemakersのメンバーや、元BEAT CRUSADERS のマシータさん、100sの町田さんらと再びバンドを結成した中村さんは、ニューアルバム『海賊盤』をリリースしました。
中村:『対音楽』を作り終えたときには、「これで音楽活動をやめてもいいかな」とも思ったんですよ。1997年の『金字塔』から始まって、100sを経て前作の『対音楽』で、一周回ったような感覚があって。でも、『対音楽』のプロジェクトが終わってから、100sのギタリスト町田昌弘と一緒にアコースティックツアーをやって。地方を回りながら、お客さんとコミュニケーションをしているうちに、少しずつ気持ちが変わっていきました。ちょうどそんなときに、Hermann H.&The Pacemakersと出会ったんですね。僕らとほぼ同時期にデビューした彼らも、辛い体験したり活動休止していた時期があって、「もう一度やろう!」っていうときだった。僕らと行き先が同じなんじゃないかと思って。それで、彼らとバンドを結成することになったんです。振り返ってみると、100sのときは、自分の中で『対音楽』を作るまでの見通しというか、見取り図みたいなものがあったんです。でも『対音楽』を作り終え、「海賊」として船出した先は、もう完全にまっさらな状態。進んでいくと色んな出来事が次々と起き、それに対して受けて立つ毎日です。90年代には、計画性を持ったサバイブが必要だったけど、これからの時代はもっとワイルドな活動が求められる気がしますね。
初のアニメタイアップ曲と朋友・町田昌弘の存在
そして今回、ニューシングル『世界は変わる』がリリースされます。アニメ『エンドライド』の第2期エンディングテーマであり、中村さん自身の活動とアニメの作品世界が絶妙にリンクした楽曲に仕上がりました。
中村:『エンドライド』は、異世界と現実世界それぞれに住む青年の交流を描いた物語です。僕にとっての相方は誰か? といえば、やっぱり100s、アコースティックツアー、そして海賊と、ずっと一緒にやってきた町田昌弘なんですよね。海賊船の副船長みたいな存在です(笑)。あいつに持ち場を任せておけば安心、みたいな。最初はお互いぶつかり合ったこともあったけど、そんな局面を乗り越えてきたからこその「絆」があると思います。その上で、異世界と現実世界が交わる場所ってどこかなと考えてみたら、それは普遍的な空だったり、自然だったりするのかなと。その交わる地点を主人公はどんな気持ちで眺めているのか、思いを馳せながら作ったのがこの曲です。
『金字塔』というイカダに乗り込み、たった一人で大海原へ漕ぎ出した中村さん。今では巨大な「海賊船」の船長として、たくさんの仲間を率いて進んでいく存在になりました。
中村:今年の8月10日、佐野元春さん主催のイベントに出演させてもらうことになりました。『THIS!』という、20年ぶりに開催される伝説のイベントです。佐野さんとは、2ndアルバム『太陽』(1998年)を出したときに対談させてもらってからのご縁で、ことあるごとに僕をステージに引っ張り上げてくれるんですよね。佐野さんと先日食事させてもらったときに、「お互い、活動の仕方が似てきたよね」なんて言ってもらえて。「いや、師匠が師匠だからですよ!」って答えたんですけど(笑)。僕も佐野さんのように、これから先も志を共にする人たちと、ずっと進んでいきたいなと思っています。
中村一義の音楽活動の拠点、プライベートスタジオ「100st.」
ここは、中村さんのプライベートスタジオ「100st.」。祖父母と暮らしていた実家の一室「状況が裂いた部屋」からほど近いこちらに拠点を移したのは、アルバム『OZ』(2005年)の完成後でした。「状況が裂いた部屋」からつながる空気感を得るため、レコーディングブース、コントロールルームの音の響き方は特にこだわったそうです。
最初は4トラックしか録音できないハードディスクレコーダー1台で宅録を始めた中村さんでしたが、アルバム『100s』の頃にPro Toolsを導入。無限にトラックが使えるようになりました。ただ、限られた機能しか使えないハードディスクレコーダーだったからこそ、そこで生まれたアイデアはユニークだったと考える中村さんは、Pro Toolsでもできるだけトラック数を抑えて作曲し、8トラックで成立しない曲は、今もボツにしているのだとか。
お気に入りの機材1:Nord「Nord Stage revision B」
Nord「Nord Stage revision B」(最新ラインナップ)
ピアノやエレピ(電子ピアノ)、オルガン、そしてシンセサイザーと、様々な音色に多彩なエフェクト機能を加えたオールインワン・ステージキーボード。こちらも中村さんは、発売と同時に購入したそうです。
中村:アコースティックピアノの音が特に気に入っていて、『対音楽』と『海賊盤』のピアノは、ほとんど本機で弾いていますね。しかもこれ、エフェクト機能が面白いんですよ。ピアノにもものすごく深いコンプをかけたり、それをシンセのシーケンス音のように鳴らしたりすることができる。1つのピアノで、シンセっぽい音も、ギターっぽい音も出せるところもお気に入りの理由です。
お気に入りの機材2:KORG「microKORG」
KORG「microKORG」(商品詳細)
2002年に登場以来、プロアマ問わず数多くのミュージシャンから絶大な人気を誇り、10年経った今でも当時と同じスタイルのまま、世界中で活躍しているのが「microKORG」です。
中村:発売と同時に手に入れたから、2002年前後だったかな。僕の曲といえば、microKORGっていうくらい、その頃はもう使い倒しました。プリセットの音もものすごく好きですし、そこからエディットしていくのも簡単で、直感的に操作できるから嬉しいですね。ボコーダー機能もすごく便利で、先日の『金字塔』再現ツアーでも重宝しました。このシリーズは全て持っています!(笑)
お気に入りの機材3:Moog「Little Phatty」
Moog「Little Phatty」(最新ラインナップ)
アナログシンセの名機であるミニモーグ。その生みの親であるボブ・モーグ氏によってデザインされた「Little Phatty」は、ミニモーグと同様100%のアナログシグナルパスを持ちながら、MIDIやUSBにも対応した今を活躍するミュージシャンのための、新しいモーグシンセサイザーです。
中村:太いアナログシンセの音が欲しかったんですけど、本物のモーグだとコンディションに固体差もあるし、電源を入れてからピッチが安定するまで時間がかかるのも大変じゃないですか(笑)。それで悩んでいたときに本機の存在を知って、すぐに購入しましたね。音色も、モーグを継承しつつキラッとしたところもあって気に入っています。特に、アルバム『世界のフラワーロード』では全編にわたって使いまくっていますね。
お気に入りの機材4:YAMAHAアコースティックギター
YAMAHAのロゴが入ったこちらのアコギは、中村さんが友人から譲り受けたもの。今はほとんど使っておらず、弦も切れたままですが、高校を卒業して宅録を始めた初期は使い倒していたそうです。
中村:「状況が裂いた部屋」にThe Beatlesと同じ機材を持ち込んで、本格的に宅録を始めるまではこのアコギを弾いていました。なので“永遠なるもの”もこれで作っていますね。思い入れの強い、記念のアコギなので、デビューして間もなく『風待ミーティング』に出させてもらったときに、松本隆さん、細野晴臣さん、鈴木茂さん、そして高野寛さんにサインを書いていただきました。今は完全に観賞用です(笑)。
「宅録アーティストの先駆け」としてデビューし、以降は作品ごとに音楽スタイルや名義さえも変えながら、前人未到の地平を切り開いてきた中村さん。「これからのことや、過ぎ去ったことを思い煩う必要はない。大切なのは、今この瞬間を楽しむこと」と言ったのはジョン・レノンですが、『金字塔』で<「僕は、今、ここにいる」>(“ここにいる”)と高らかに宣言した中村さんもまた、常に「現在という瞬間」だけを見据えながら、前へと進み続けています。『対音楽』でキャリアの折り返し地点に到達した彼が、この先どんな光景を私たちに見せてくれるのか。楽しみでなりません。
- リリース情報
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- 中村一義
『世界は変わる』 -
2016年8月10日(水)から配信リリース
1. 世界は変わる
2. スカイライン(Live)
3. 大海賊時代(Live)
4. キャノンボール(Live)
- 中村一義
- プロフィール
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- 中村一義 (なかむら かずよし)
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1997年、シングル『犬と猫 / ここにいる』でデビュー。セルフプロデュース、そしてすべての楽器をほぼ一人で録音したデビューアルバム『金字塔』は独特な日本語詞と卓越したポップセンスにより、日本のロックシーンに多大なインパクトを与え、4枚のアルバムリリースしている。2004年にはバンド「100s」を結成。バンドとしての活動を経て、2012年には約10年ぶりにソロ名義で再始動し、アルバム『対音楽』を発表。2016年3月には、4年ぶりとなる最新アルバム『海賊盤』をリリース。
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