コムアイが東東京の魅力を開拓。多国籍な移民との出会いと交流をルポ
2月の寒空の下、しかし心温まる交流を楽しむコムアイ(水曜日のカンパネラ)の姿が、そこにはあった。
もともと劇場やライブハウスといった施設の少ない東京の東側を広大なキャンパスに見立て、アーティストと共に音や音楽で街を花開かせていこうとするアートプロジクト「BLOOMING EAST」。そのコラボアーティストの一人として選ばれたコムアイが、外国人旅行者の集うホステル、エチオピア人やジャイナ教徒のインド人が営むレストランといった東東京のスポットを訪ね歩いたプロジェクトの初日だった。晴れやかな彼女の表情からは、来たるべき東京の姿が見えてくる。まるで春を呼ぶ風のように、人と、そして街と語り合った、コムアイの一日のルポルタージュをお届けしよう。
「数年先の東京」を考えるコムアイ×移民や難民が数多く暮らす東東京
コムアイ:今日は、ここから数年かけて、東京で何をしていったらいいのかを考える最初のサーヴェイ(調査)の日なんです。いろんな方向性が考えられるけれど、何も決めずに、まずはそこにいる人たちのリアルな話を聞いてみたいな、って。
一日の小さな旅の途上で、コムアイはふとこんな言葉を口にした。彼女が今回携わることになった「BLOOMING EAST」は、これまでも、音楽家のコトリンゴが公園と地下街のためのサウンドトラックをプロデュースするなど、東東京をフィールドに、どのように公共空間に音楽を展開していけるかをリサーチする活動を行ってきた。
2016年度の活動の模様(サイトを見る)
「BLOOMING EAST」は、音楽が街中でできることを拡張していくことを目指すNPOトッピングイーストが仕掛けるプロジェクト。街に音や音楽が浸み出すことで、空間の温度が、人々の体温が、ふっと上がるような場をつくりたい。そのためのリサーチからアーティストと共に考えていくという取り組みだ。
そんな試みを始めていくにあたり、コムアイが真っ先に興味を持ったのが、東東京に住む異国の人々である。後に触れるように、この地ではいくつもの国々からやってきた移民や難民の人々が暮らしを営んでいる。様々な見方はあろうが、それはもはや絶対的な事実だ。しかし一方で、私たちはあまりにも彼らのことを知らないし、そうしたこれまでとは異なる東京の息吹をきちんと感じ取ることができているかどうかもわからない。
ただ、何も身構えることはない。コムアイは、そうした異国の空気が流れる東京のほうが安心するという。最近では、外国人が集う都内のホステルに泊まることもあるという彼女が、その心地よさについて語ってくれた。
コムアイ:日本人同士でいると、気を遣いすぎたり、みんな共通理解がありすぎたり、逆に居心地が悪いというか、身動きをとりづらいように感じることが多いんですよ。
中央区八丁堀のホステル『WISE OWL HOSTELS』で宿泊客とともに(サイトを見る)
コムアイ:高校生の頃から、新大久保の「イスラム横丁」によく行っていたんです。両親がタンドリーチキンを作ったりするような家庭で育ったから、よくスパイスとかを買いに、そのあたりの食材屋さんに行っていて。お店のなかは完全に異国。
ネパール人しかいなくて、みんなが音楽に合わせて勝手に踊っているようなカレー屋さんとかも超好き。すごく楽になれるんです。香港やロサンゼルスみたいな外国人の活気で満ちている港のような都市が好きなのも、似たような理由かも。あの大雑把さがいいんですよね。
コムアイにとって心地よい場所。それはきっと、私たちの軽やかな「未来」を示唆してくれる場所に違いない。
「東京は住むには静かすぎる」という外国人旅行者の言葉
ポップミュージックの世界で華々しく活躍するコムアイが、その先鋭的な感覚を解放して、自由を感じ取れる場所。それはどんな場所だろうか?
「東京の東側には、もっとそういう場所がありそう」――それこそが、彼女が今回のプロジェクトに参加した動機だったようだ。「BLOOMING EAST」を主催するNPO法人トッピングイースト理事長・清宮陵一も、コムアイの言葉を受けながら、今回のプロジェクトの狙いについて語ってくれた。
清宮:アウトプットの仕方、いわば結果を最初から決めないで、まずはリサーチから始めたかったんですね。このレポートも含め「入り口」からプロジェクトの過程そのものにたくさんの人に触れてもらえると、結果も大きく変わってくるんじゃないかな、と。
コムアイさんとは「ここでこれをやってください」というオファーではなく「いつどこで何をどうするか」という根本から始めたかった。今日はリサーチでもありますが、まずは東東京そのものと「チューニング」をしてもらいたかったんです。
「そのために、できるだけ座標の異なる3つの場所に、一緒に行ってみたいと思った」と清宮が語る旅路は、まさに空港のようにオープンに人が行きかう八丁堀のホステル『WISE OWL HOSTELS』から始まった。
「外」からの目線では、この東京はどのように見えるのだろう? ちょうどその日ステイしていた、英国出身、香港在住のバーンズさんファミリーに、コムアイが語りかける。「普段暮らしている香港は国際的な都市だから、東京も、こうした様々な国からの人々が集まるホステルも、私たちにとっては心地いい」と語ってくれた彼らは、コムアイの旅路にひとつのヒントを与えてくれた。
「香港ではみんなが叫んでいるから、とてもうるさい(笑)。東京はみんなとても静かだから、旅をしたりステイしたりするにはすごく気持ちいい場所です」「でも、住むとなったらちょっと静かすぎるかな」――そう笑う彼らの言葉が、旅のスタートを飾ることになった。
私たちはもしかしたら、この静かな東京で、聞き逃している何かがあるのかもしれない。その「ざわめき」を聞くために、コムアイは隅田川を越え、さらに東へ進路をとった。
葛飾区四ツ木で、ハードな現実を生きるエチオピア人家族の笑顔に出会う
2か所目に訪れたのは、葛飾区四ツ木にある「リトルエチオピアレストラン」。葛飾区には近年、エチオピア人たちによるコミュニティーができている。2016年にオープンし、なかなか日本では食べることのないエチオピア料理を提供してくれるこの店は、オーナーのエフレムさんが、妻のティババさんと一緒に経営している。
店の扉をコムアイが開ける。その次の瞬間には、エフレムさん夫妻の娘であるベタちゃんとコムアイが意気投合していた。まさに一瞬の出来事。カメラマンがレンズを向けると恥ずかしがって「やだー!」と嫌がるベタちゃんだが、コムアイが一緒に写ろうとするとノリノリでポーズをとってくれる。
「私、昔は髪がピンクだったこともあるんだよ!」「嘘―っ!?」という微笑ましいやりとりが続く。自分にとって心地いい場所――先ほどの彼女の言葉を実感するような風景が、そこには広がっていた。
「お名前は?」と取材班が尋ねると、「サクラ!」とベタちゃんは答える。日本で生まれ育った彼女は、当然ながら日本語が堪能で、本名とは別に、自ら日本での名前も考えている。そんなベタちゃんの姿には、圧倒的なまでのリアリティーがある。
コムアイとベタちゃんの様子を和やかな表情で見守っていたエフレムさん夫妻が、自慢の料理でもてなしてくれた。それぞれ異なる辛さのスパイスで煮込まれた牛レバーやハチノス、種々の野菜を、インジェラと呼ばれる厚手のクレープのような生地で包んで食べる。
口に入れた瞬間、「美味しい!」とコムアイも喜んだくらい、芳醇なスパイスの味わいとモチモチとしたインジェラが織りなすハーモニーは、体験したことのない驚きに満ちていた。エフレムさんによれば、インジェラは本来テフという穀物の粉だけを発酵させて作るが、それでは酸っぱさが際立つため、日本の人々の舌にも合うよう米粉も混ぜたオリジナルのレシピにしているという。
母国には帰れず、難民認定はおりない……エチオピアの人々が置かれる緊迫した現状
自慢の料理に舌鼓をうちながら、コムアイによるインタビューが始まった。「なぜ、日本に来たのですか?」「先に日本に来ていた兄を頼って来たんです――」
エチオピアでは2005年、与党のエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)が勝利をおさめた総選挙の後、不正があったと抗議した野党の支持者たちと当局が衝突。多くの死亡者を出し、その後も反政府運動にかかわる者への弾圧が続いている。「(与党の獲得票が)99%だと言われた。そんなの、アフリカでも、どこだってありえないですよ」とエフレムさんが語るように、彼ら家族も政府に異議を唱え、その結果として国外に難民として逃れざるを得なくなった。
現在20歳ほどになっているはずの甥っ子は、3度目の逮捕・収監の後、「どこにいるかもわからない」と言う。今年2月には反政府抗議運動の激化により首相が辞任、非常事態宣言が出されたことを受け日本の外務省が注意喚起を呼びかけるほど、状況は緊迫し続けている。
16年ほど前にエフレムさんは来日。広島を撮るインディペンデントな映画の制作で来ていたティババさんと日本で出会い、二人でレストランをオープン。お店は主にティババさんが切り盛りし、エフレムさんは近所で働く。使用済み天ぷら油をバイオ燃料などにリサイクルする「TOKYO油田」というプロジェクトの工場だ。運営する株式会社ユーズの代表取締役・染谷ゆみはこう話す。
染谷:1980年代半ば以降、徐々に海外の方が日本にやってきて、うちでも働くようになりました。そのときどきによって、「今はイラン人の方が多い」といったような波があるんですよ。エチオピアの方がいらっしゃるようになったのは最近ですね。みなさん、とてもジェントルマンなんですよ。
日本の難民制度は、短期滞在ビザで来日し難民申請すれば、最初の半年間は就労できないものの、その後は仕事も認められる「特定活動」という在留資格に切り替えられる仕組み。しかし、日本では難民申請はほぼ認定されない。
彼らは異議を唱え何度も申請し、その間も日々の暮らしのために働き続ける(2018年1月、日本の法務省はこの難民申請を厳格化すると発表。就労目的の申請を抑制し、本来の目的である不安定な立場に置かれている難民保護を迅速化するというが、しかし難民認定はほぼおりず、これまでの在留資格者のうちの多くが資格を失うと推計されている)。
エフレム夫妻の店が、仲間内で「関所」と呼ばれることに託されたユーモア
もちろん、エチオピアに比べれば、安心して暮らせる日本。しかし一方で、「日本の法律は、外国人のためのシステムがあまりない。それは大変」とエフレムさんは言う。
特に難しいのが、婚姻の届け出だ。「エチオピアの書類がないと結婚できないと言われた。でも帰ったら捕まってしまう」。だから、ティババさんとは今も内縁の関係だ。「法律は、人間が人間のために作ったものなのにね」――エフレムさんは静かに思いの丈を口にする。
エフレム:娘がときどき、私のことを「パパじゃない」って言うんですよ。パパだと言ってしまうと、証明できなくて困ることもあるから……だから、子どもを新たに作るのはやめました。
コムアイは、エフレムさんの話にじっと耳を傾けていた。母国との関係、日本での環境、目の前の美味しい料理、はしゃぎまわるベタちゃん。すべてが東東京のリアルだ。取材後、「具体的な話が聞けてよかった」とコムアイは語った。彼女のアンテナは、きっとそんなリアリティーのすべてをキャッチしていたはずだ。
どんなに大変でも、日々は流れる。そこに生まれる喜びもある。エフレムさんも休日には近所のエチオピア人仲間とサッカーに興じるという。そんな友人たちが立ち寄るこの店は、エフレムさんが着るTシャツに書かれた言葉のようなものなのだそうだ。
エフレム:これはアムハラ語(エチオピアの公用語)で、関所という意味。みんな帰るときに立ち寄るから、すぐに帰れない(笑)。でも、エチオピアの人はそれがみんな好きなの。ちょっと話して、ちょっと飲んで。
「すごくいい名前!」と笑うコムアイ。その愛すべき「関所」への再訪を約束して、彼女はこの日の旅の最終地点へと向かった。
御徒町にインド系宝石商が多い理由を、ジャイナ教徒の占星術師が語る
コムアイが最後に訪れたのは、御徒町の完全菜食レストラン「ヴェジハーブ・サーガ」だ。近くで宝石店を営むラジャ・ラジグルさんが、自分と同じジャイナ教徒(後に触れるように、彼らは完全菜食主義だ)のためにオープンさせたレストランである。
食事を始める前、私たちはラジャさんがいる近所の宝石店を訪れた。そして、ここでもコムアイは一瞬で場に馴染んでしまった。店に入って挨拶をしたその瞬間から、ラジャさんによるコムアイの「占い」が始まったのだ。
ラジャ:あなたがジョイフル(喜び)を感じるカラーはピンクでしょう?
コムアイ:え、何でわかるの!?(笑) そのときどきによって変わるけど、確かにそう!
実はラジャさんはインド占星術師としても活躍している人物。エネルギッシュな立ち居振る舞い、山口百恵に憧れて来日した(!)と話すその経緯も含めて、この東東京の地で人生を謳歌し続けてきたことが一瞬にして伝わってくる。
ラジャさんの店も含めて、御徒町周辺には宝石店がひしめいている。これは、この地に集った人々が信仰するジャイナ教に関係している。コムアイが「私、すごく興味を持っていたんです。世界でも一番くらい、ストリクト(厳格)な宗教でしょう? 虫も殺しちゃいけないし」と語るように、ジャイナ教は「不殺生」という厳しい戒律で知られる(完全菜食なのもこれが理由だ)。
そしてもうひとつの大きな戒律が、「無所有」だ。物の所有や蓄積は忌避されるため、流通貿易に携わるのがジャイナ教徒の働き方となり、宝石商はその雛形となった。インド人全体ではごくマイナーな宗教であるジャイナ教徒が、今や世界的な宝石流通ネットワークを形成しているのだ。
ラジャさんは、自らが宝石商として流通を担うわけを、こんな言葉で表現した。
ラジャ:私たちはシェアリングの思想を信じているのです。私たちは幸せをシェアしていて、みんなに感謝しているのです。
一見すると「なぜインドの人が? なぜ宝石商?」と思うような御徒町の街並みにも、実はこんな人々の思いが詰まっているのだ。その街の片隅で、コムアイとラジャさんは意気投合する。
コムアイ:オパールがいっぱい! キラキラしててキレイ!
ラジャ:君にはまだちょっと早いかな(笑)。また5年、10年経ったら来てよ。
レストランで食事を始めてからも、ラジャさんはサービス精神いっぱい。ヴェジ・ビリヤニやら、ココナッツミルクのアイスやら、これも美味しいから食べて、あれも食べてみてと勧めてくれる皿は、どれも滋味に溢れていた。ラジャさんがコムアイに「My darling!!」と語りかけ、コムアイが「You are my mentor!!」と返すその様子は、確かにこの東東京で生まれた、ひとつの幸福な風景だった。
一日旅で異国のエネルギーに触れたコムアイが、東東京の地に見出すもの
旅の終わりに、コムアイは改めて胸の内を語ってくれた。
コムアイ:私、東京はそんなに好きじゃないと思うことが多くて。この街にいるとみんなルールを守ることを優先するし、何か選ぶときも無難なほうを選ぶようになる。それが政治の話だけならまだいいのだけど、公園の看板にびっしりルールが書かれていて、遊び場でなくなってしまうとか。夜遊びする場所もそう。頭がよすぎて、説明できないよさを切り捨ててしまっていないかしら。面白かったアーティストは自然に東京を離れることもあるし、静かで安全だけど遊び心のない街に……東京という都市がそういうキャラクターになっちゃっている感じがするんです。全然いい循環にならないなあ、って。今日の旅には、そんな東京に対するヒントがある気がしているんですよね。滞っちゃっている街の流れが、ここから変わるような。だから興味があるんです。
そうしたヒントをもとに掴んだビジョンを、具体的な土地のもと、アーティストとして何らかの形に現実化させていくことが、これからのコムアイの挑戦になる。彼女は「この土地から始める」ということに関して、ひとつの手ごたえを感じているようだった。
コムアイ:「気持ちいい場所」って、人は攻撃しづらいと思うんです。「ここは私たちの土地です」と言うと、衝突してしまいますよね。だから、もっとあいまいな、でもここにいると気持ちいい――そんな場所が必要で、そこに寝そべるような感じがいいのかな、って。
人の喜びがどんどん高まっていく、重なっていく、集まってくる場所。そういう人の力が強い場所からスタートして、「新しいことがここから生まれていくんだ!」という感覚が広がっていけばいいんじゃないかな。そうすると人は、いい意味でやめられないと思うんです。
「BLOOMING EAST」というプロジェクトがミュージシャンに焦点を当てているのは、この「気持ちいい場所」の空気や感触を掴まえて、広く共有できるものにしてほしいと願っているからではないだろうか。目には見えず、しかし確かな歓びを感じさせてくれるものの核心を、きっとミュージシャンは知っている。なぜなら、音楽がそういう存在なのだから。最終的にはどんな形に結実するかはまだわからないが、コムアイが「BLOOMING EAST」を通じてどのように東東京を「咲かせて」いくか、進展を楽しみに待ちたい。
多様な、新しい私たちが紡ぐ、新たな東京の心地よさ。コムアイが東東京で感じた未来の風は、きっとあなたの耳元にも吹いている。
- プロジェクト情報
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- BLOOMING EAST x コムアイ サーヴェイ
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本サーヴェイは、これからも続きます。今後も東東京を軸にして、多様な価値観や文化と出会いながらプロジェクトを進めていくにあたって、お話を伺わせていただける方や訪問場所についての情報を募集しています。現在東京に住まわれている(または過去に住んでいたことがある)外国にルーツを持つ方、様々な文化や背景を持つコミュニティ、外国籍の方々と一緒にプロジェクトを実践されている方、関連するイベント情報など、メールにてお寄せください。
- プロジェクト情報
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- BLOOMING EAST
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「BLOOMING EAST」は、東京都、アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)、NPO法人トッピングイーストの三者共催により「東京アートポイント計画」の一環として実施されています。
- プロフィール
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- 水曜日のカンパネラ (すいようびのかんぱねら)
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2012年の夏、初のデモ音源“オズ”“空海”をYouTubeに配信し始動。「水曜日のカンパネラ」の語源は、水曜日に打合せが多かったから……と言う理由と、それ以外にも、様々な説がある。当初グループを予定して名付けられていたが、現在ステージとしてはコムアイのみが担当。「サウンドプロデュース」にKenmochi Hidefumi、その他、「何でも屋」のDir.Fなどが、活動を支えるメンバーとして所属。以降、ボーカルのコムアイを中心とした、暢気でマイペースな音楽や様々な活動がスタートしている。
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