「言語化できないもの」の再発見で、映画のパラダイムを更新する『リヴァイアサン』

イメージを引き裂かれた「怪物」

旧約聖書に登場する大きな蛇、もしくは竜の姿をした海の怪物「レヴィアタン」。トマス・ホッブスは自著『リヴァイアサン』で、万民の権利を委託され、強大な力を持つに至った「国家(コモンウェルス)」としてこの怪物の名を引いた。群がる臣民が王冠を被る巨人の姿を形作った有名な挿絵から、「海の怪物」として産み落とされたこの怪物は、個々人のイマジネーションの中で引き裂かれ、不定型化した、というのは言い過ぎかもしれない。ただ、その名を冠した本作『リヴァイアサン』の噂を「古臭いドキュメンタリー論をぶっ飛ばす!(『ヴィレッジ・ヴォイス』)」「ゲームの規則は書き換えられた(『フィルムメーカー・マガジン』)」「あらゆる意味でセンセーショナル(『アートインフォ』)」などと熱烈な賛辞を伴って目にする度、そして何の映画であるかは全く説明していないのに、とにかく得体のしれなさ、奇妙な美しさだけが伝わってくる不思議で秀逸な予告編を映画館で度々目にする度、この映画のイメージもまた想像の中で引き裂かれていったのは奇妙な符合である。


そう、何度この予告編を観ても、何度映画解説を読んでも、本作の何がそんなに凄いのか説明してくれるものはなかった。みなさんにとって、この文章もおそらく同様であろう。何故なら、なんとも信じがたいことであるが、本作はこの予告編そのままの映画であり、鑑賞後もなお得体のしれない、単なる異物として存在して続けているのだから。つまり、それを鑑賞することは、心の中に「イメージを引き裂かれた怪物」を宿すのと同義であった。映画史における起点であるリュミエール兄弟(フランスの映画発明者)を体験した人々を想像すると、やはり映像を観ずに「スクリーンの中で列車が動いている凄さ」を伝えることは確かに不可能であろうと思う。映像の進化は、こうした「言語化できないもの」を再発見した時に成し遂げられるものなのかもしれない。

『リヴァイアサン』より
『リヴァイアサン』より

映画の「正体」の裏側にあるもの

港町ニューベッドフォード(メルヴィル『白鯨』の舞台となった由緒正しき港)から出港した漁船の過酷な日常を観察したドキュメンタリー、というのが、一応この映画の「正体」にあたる。海底に仕掛けた網は不気味な音を立てる機械に引きずり揚げられ、捕らえられていた膨大な魚たちはあっという間に捌かれて「商品」となる。不要な部位はゴミとして海に捨てられ、船員たちがつかの間の休息をとるあいだにカモメたちがそれをついばむ。カモメは空に溶けていき、貝殻の欠片やヒトデは海の奥底へと瞬いて消える。「人間の営み」も「自然の理」も「機械のいななき」も、冷たいカメラの視線が、フラットに映し出しているのだ。

『リヴァイアサン』より
『リヴァイアサン』より

監督を務めるルーシァン・キャステーヌ=テイラーとヴェレナ・パラヴェルは、ハーバード大学の「感覚民族誌学研究所」という所属するラボで、この作品を編み上げている。この「美学」と「民族誌学」を結びつけるという画期的なラボは、今までにも、羊飼いの旅を記録した『Sweetgrass』(2009年)、ネパールの奥地にあるヒンドゥー教の巡礼地を取材した『MANAKAMANA』(2013年)といった興味深い(が、ほとんど日本に紹介されていない)作品を発表している。彼らは、この映画の制作にあたり、防水性能を持ち、衝撃にも強い、革命的な高性能小型カメラ「GoPro」を複数台導入。水中や高所といった至る所にそれを据えることで、我々が地上で生活する以上、絶対に見ることのできない視点をものにしたのである。

体験を脇において、理性とスノビズムの精神で説明するのであれば、まず真っ先に「ノイズミュージック」を想起させる映画である。GoProが生々しく切り取った物音の凄まじさは、ミュージックコンクレートを通り越した先にあるインダストリアルノイズのように響く。ここで、フィルムにつけた傷だけを観せ続けた作家、スタン・ブラッケージが創り出した「目で見る音楽」の位相を反転させたような、「耳で聴く映像」の存在を強く感じた。単に録音したものを垂れ流すのとは全く異なる、確固たる美意識を以って編集された「音楽」がこの映画の基底部分で流れ続けており、暗闇、または猛烈な混沌の中といった、本作鑑賞中に何度も訪れる「視界のない世界」においては、そうした音の激流が体を圧倒し、我々はそこに何かを観ることになる。本作のサウンドデザインを担当しているのは、エルンスト・カレルという実験音楽作家で、フィールドレコーディング作品をいくつも発表しており、そちらも興味深い。

『リヴァイアサン』より
『リヴァイアサン』より

死んだ魚の視点で「海の怪物」を探す知的遊戯

その「音楽」に翻弄される中で、かろうじて見えてくる世界。そこに繰り広げられているのは、「言語化できないもの」であり、陳腐かつ端的に言って「今まで観たことのない映像」である。その体験に大きく寄与しているのが、GoPro。死んだ魚の身体に取り付けられたGoProが、押しては寄せ、ぶつかり乗り越えていく幾多の魚を捉える。船腹に取り付けられたGoProが、さっき殺された魚たちの血液と臓物の欠片が海を赤く染めるのを捉える。鎖やモーター、ロープが咆哮する様を捉える。星屑のように降り注ぐ貝殻やヒトデを捉える。視点を平常に戻せば、何か変わったことが起こっているわけではない。とっくに冷めていそうなカップスープを飲みながらうとうとと居眠りをする船員を眺めていたり、そこで繰り広げられているのは人間の視点から見れば(過酷ではあるが)何の変哲もない漁師の日常。しかし、一貫して人間の視点が失われているから、僕らはまさにプリミティブな衝動を以って、そこに悪魔も見るし天国にも行ける。しまいには、どこが天でどこが地なのか全くわからない状態で、地を這うカモメの群れ、星のように降り注ぐヒトデと貝殻、空を飛ぶ魚が、暗闇に光に溶け込んでいくのを目撃することになるのだ。

『リヴァイアサン』より
『リヴァイアサン』より

深夜の暗闇、または仄暗い深海から見えてくる、人間の英知の塊としての漁船。その黒光りする鋼の巨体が、ラヴクラフト的な古の神々に見えてくる。そこで、この映画が『リヴァイアサン』と意味深げに題されている意味が二重にも三重にも浮かび上がってくる。先に書いたように、移ろい言語化されることを拒んだこの映画自身のこと。暗闇に浮かぶ、自然界には存在し得ない鉄の神々のこと。そして、無慈悲にエイを切り裂き、魚たちのはらわたを引き抜く、悪魔のような船員たちの裏側に透けて見える私たちの社会そのもののこと。『リヴァイアサン』とは一体何なのか。観た人の数だけその印象も解釈も引き裂かれるこの趣向は、観察映画として極上の知的遊戯を提供してくれるものである。

受け身で映画を楽しむタイプの方にはきついかもしれないが、決して難解で退屈なアート映画などではない。いささか暴力的な手法ではあるが、文字通りの濁流と轟音に身を任せるうちに終わってしまう、87分の「エンターテイメント作品」である。「言語化できないもの」を浴びるように体験するには、最高の映像と最高の音響での視聴、つまり、絶対に、映画館で観ることをオススメする。

映画情報
『リヴァイアサン』

2014年8月23日(土)からシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
監督・撮影・編集・製作:
ルーシァン・キャステーヌ=テイラー
ヴェレナ・パラヴェル
配給:東風



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